NPO

編集後記12月13日 UFO

読んでくださった方々へ、

長い間、お付き合いいただいて有難う。

お話はこれでひとまず終わりとなりました。

来年2月、5月、8月中心に1ヶ月弱単位で

現場業務に出掛けます。付け足す記事があれば、

その都度、何らかの方法で掲載します。

このシリーズは三和書籍ブログのアーカイブ

に置かれると思いますが、シエラ関係を含め

今後の記事は一応、2005年8月登録後

ずっと死に態だった下記URLに

のらりくらりと掲載する予定なので、

どうぞ、お立ち寄りの程を。

http://tawake.cocolog-nifty.com/norakura/

UFO

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付録2:地図

1.西アフリカ

2.シエラレオーネ

3. Rokupr and its environ

Imgp0047_exposure

取水支流名: Mesa

稲作研取水支流名:Mature

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付録1:写真集

各回記事に添付する作業が途中で編集機能不具合になったので、

残ったSL Encyclopedia 2007 archiveの写真の内

転載可能分6枚を纏めて掲載します。

1.田舎の生活 (2枚)

1-1 ミニミニ・マート

1-2 パームオイル売り

2.市場 (4枚)

2-1 農民市場

2-2 市場通りの雑踏

2-3 洗剤売り

2-4 リンゴ売り

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第14回 ある女王の死 –シエラレオーネ-

註:この小文は25年前の出張後に書いたもので、少しは歴史に触れている。

           これを今回のシエラレオーネ便りの最終稿とする。(UFO)

       (写真2枚掲載)

英国ヴィクトリア女王治世の頃、西アフリカの片隅にMadam Yokoと呼ばれた女王がいた。正確にはMende族の中で一番大きな領土を持つ連合酋長領の盟主である。

この辺りは今シエラレオーネに属している。国名は1462年ポルトガル人Pedro da Cintraが海岸にそそり立つ斑レイ岩の山をライオン山脈と名づけたのに由来している。この小さいながら年間5,000mmもの雨を呼び込む山塊の麓にFree Townがある。西アフリカ随一の天然港で山から流れ出る水も美味である。

1787年には英国法人が解放奴隷を再定着させる場所として、この地をMende族に隣接して住むTemne族の酋長から買い取った。19世紀に入って英国はこの地を植民地とし、1986年には周囲の酋長領を保護領とした。

Madam Yokoの在位は1885年から1906年までで、彼女は部族戦争の混乱期や初期英国統治下の反乱を乗り切り一応の安定を見届けた後、自分の権勢が絶頂のときに自分の意思で黄泉の国へ昇華したのである。

女酋長の存在は珍しいが、この種族にはSali法のように女が酋長になってはいけないと言う慣習法は無かった。彼女がそうなったのは社会慣習に見合った自身の実力である。アニミズムに満ちた世界とは言え、彼女にとって呪術は実力の内ではない。部族内はともかく、押し寄せる西欧の工業力に対して仮面の向こう側からやって来る呪力は物の数ではなかった。

彼女を育てたのは部族社会そのものである。彼女は部族の女学校、Sando Societyで部族の女性として知らねばならないしきたり一切を他の女の子と同じように学んだ。現在Free Townの雑踏の中で時折、仮面の踊り手を中心にした一団が練り歩くのに出逢うことがある。

「あれは何だ?」と聞くと、「Secret Societyだ。あんたも一緒に踊らないか。」との返事である。

それじゃ秘密性はなくなってしまったのか。そうではない。踊りの部分はもともと誰にでも開放されていた。そう言えば、未だ社会の成員と認められていない子供だって踊るではないか。秘密なのは生産、戦争、医療や呪術の技法でありその伝授は今でも村に行けば続いているところもある。

              Free Townの町外れで手をかざせば、入り組んだ海岸線一帯に何所までもアブラヤシの林が続いているのが見える。

Madam Yoko在世の頃、英人がヒルギの群生する海岸の奥に自生するアブラヤシを植林し西欧市場に油や核を運んだ。このヤシは新大陸に運ばれアフリカヤシと呼ばれている。一方、ヒルギは切り倒され雨期の川の増水を巧みに利用してアジア種の稲が植えられるようになった。籾のこぼれ落ち易いアフリカ原種は見捨てられ道端に生えている。今はその特性を生かしてアジア種と交配した品種が生まれている。

更に目を凝らせば整然と同じ高さで広がる背の高い林のところどころに群を抜いて一人聳える巨木に気がつくだろう。幹は北国の巨木よりはアンコ型で枝振りは柔らかく広やかである。ワタノキだ。この木の大きな傘の下に人々は住んで来た。教会やモスクの建造物よりのびやかで原子核の傘よりは少し安全だ。

ワタの木

SL Encyclopedia 2007 archive

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ワタの木

SL Encyclopedia 2007 archive

Soceityはカッサバ畑の向こうに広がるbushで開かれる。時折チンパンジーも覗こうと言う場所だ。別々の場所で、男の子たちはとりわけ戦いや狩の困難なときに必要な克己と忍耐、心を解く音楽を習い、女の子たちは、家事は言わずもがな、女の役割全般と音楽を習う。

                   Yokoの天賦の才のうち先ず踊りが人の目を惹いた。そこで望まれてある酋長の嫁になった。これはよくある話だ。今でもイサベラ・ペロンの例がある。間もなくその酋長が死ぬ。葬式にやってきた大酋長が友人の思い出にと彼女を連れて行った。彼女はその地で新しい学校を開く。何しろ踊りの名手のSocietyである。母親たちは競って娘を入学させた。やがて卒業は社交界への披露と同義になった。出来の良い生徒は有力者からの引き手数多である。

              一方、酋長には異人政府に顔を出すのを毛嫌いするものが多かった。大酋長もその一人で会議にはいつもYokoを代理出席させていた。今度は彼女の外交手腕が発揮される場面である。彼女の名前は更に広い地域に知れ渡るようになった。

              大酋長が死ぬと彼女が後継に推挙された。その後、彼女は近隣の酋長領を次々に傘下に加え、死んだときにはその数は15に達していた。男は集い来たり、その中には英国に反抗した酋長も居た。

              伝えるところによれば、彼女は毒杯を仰いだ後、侍女に、

              「もう充分人生を楽しんだわ、権力も男も。後は徒に齢を重ねるだけじゃないこと。」     と話したと言う。

              彼女にはNepotismの根源である子供が居なかった。彼女が最初に輿入れしたとき連れて行った弟は領土が旧来の15酋長領に再分割された際、酋長の一人にはなっている。

              とまれ彼女は無造作に素顔で橋を渡って行った。(了)

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第13回 人物素描 

1.             県会副議長とロクープル・ロバト地区選出議員 (写真1枚掲載)

僕が町で最初に出会った人たち

始めてロクープルを訪ねたときは旧道を通った。入り口に小・中学校があって、その校庭にいたオートバイに腰掛けた男と背の高い男が我々を出迎えた。オートバイが副議長だ。

第一声が「この中学校にも水道を引いてくれ。」         後で調べたら、水圧が足りない。拡張計画で今までより200m近いところに共同水栓を新設することが関の山だった。

県会の議席数は22、内20が民選である。マグベマ酋長領は3議席を持ち、大酋長も別個に終身議席2の内の1議席を持っている。副議長は国際市場のある隣の選挙区だ。125ccの自家用オートバイに乗って動く。元教員の議員が動くときは相乗りタクシー・バイクの後席に大きな身体を乗せている。時には運転手との間にもう一人男が挟まっている。

副議長は昨年奥さんを亡くした。その話を聞いて、何となく僕も哀悼顔になっていたら、いや、後二人嫁がいて、子供の総数は、エーっと、21人だったっけ。

副議長は与党、議員は野党第一党、此処の集会では副議長が仕切るが、我が親友、親友と、議員を立てること、立てること。ちなみにこの辺り選出の国会議員は野党第一党の長老だ。25年前、僕がいた農業省地方センターに出入りしていた、いわゆる農業議員で、「424」も顔見知りだ。

雨期に入り、大統領選が始まると、当然副議長はやって来ない。たまたま我が案件のことでカンビアの議会に行ったら、副議長は日焼けした顔で懐かしそうに挨拶した。

議員は単純労働ではない仕事にでも町の若者の雇用機会を逃さない。我々が何か作業を始めると、やって来てやいの、やいのと水道局幹部を突き上げ、押しつ、押されつの末、一人や二人雇わせることに成功する。

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    涸れ水栓 樹下の授業

2.             フラー人のお女将さん

フラー人は牛飼いが生業で、灌木帯や田の中か、町はずれに住んで、町の市場に牛肉を売りに来る。しかし牛連れでは町家に住めないから、商売人にならざるを得ない。しかしフリータウンやコナクリでも分かるように、肉屋の分野を越えて立派な商人が多い。

ロクープルの場合も同じである。旧道の入り口に一族の小さな集落があって、昼は隣村との間のブッシュに20-30頭に一人の牧童をつけて放牧し、夜は裏庭に連れて帰る。

アフリカで牛と言うと眠り病に対する免疫のある大型で瘤のあるゼブ種を思い出すが、フラーの牛はこの辺りに住むU’dana種である。もちろん眠り病耐性、しかし小型で非力、役牛にならない。だから、この辺りでは牛車もなければ、牛耕もない。

村長(ムラオサ)は温厚な老人で、こまめに村人(ムラビト)の世話をしている。長男は隣の敷地にある中学校の教員だ。

この小さな集落に、国連難民委が寄贈した小さな建物があって、そこに幼稚園と、即売場付きのガラ染色工房がある。

園は私立で、150人の園児を3人の先生で面倒を見ている。園長さんは僕の幼稚園の園長さんのように頼り甲斐がある暖かい感じのする婦人で経験豊かな人に見えた。

波止場通りは坂道で、大店(オオダナ)がいくつか並ぶ。地元ティムニ人やレバノン人の店に続いて、中腹、共同水栓の後ろに大きな二階建て鉄筋の建物がある。地元フラー人のものだ。その向かいにバラックが続く。反乱軍に選択的に破壊された一区画である。そのひとつに二軒長屋があって、軒の縁台に中国製プラスチック家庭用品が並び、軒下の物干し紐から染め切れやニットの小物がぶら下がっている。見ると、しっかりしたソファに座り、しっかりとした風貌の女将が横で店番をしている。この人物が幼稚園と工房の経営者である。園児が少なくなると、月謝を負ける商売感覚がある。吊るしてあるのは工房の製品だ。裏に水道の専用栓があって、レバノン人ともどもポンプを動かすエンジン燃料代の集金世話人になっている。我々が水道復旧に来ているのは、よく分かっていて、愛想が良い。時には、手をあげて我々の車を止めパパイヤをくれたりする。

3.             三人のボートメン (写真1枚掲載)

僕は何人も居る川舟屋の中で偶々三人と顔見知りになっただけのことであるが、この三人の存在がこの町の現況を理解し、将来を考えるのに都合良かったので一括りにした。ボートマンと言う紛らわしいカタカナが直ぐ浮かんだのは、昔「(一隻の)ボートに乗った三人」と言う愉快な小説を読んだのが何所かに引っかかっているからだが、これもまた紛らわしい舟と人の関係である。

警察署の裏、やや急な谷を包む小さな窪地にブルーボートと言う変わった地名の集落がある。

              さて、此処の地名にはティムニ語らしいPetifu, Makatic, Robalan*1系列の古くから人の住んでいたらしい地名とWaterloo, Savage Cornerと言った英語系列のとがあり、時にはもろにアラブ語のMadinaとか混合のLimba*Cornerのような地名もある。

*1 Roは定冠詞のような働き、Rokuprの場合、kupr(川岸の砂浜)は普通名詞。他に便法も思いつかないので僕はロクープルと仮名書きにし、アクセントと長音を同一にする誤りを犯しているが、ロクプールと書く一般日本人の慣習よりはましだ。もし太文字にアクセントがある表記法があるとすれば、ロ-プルと書いた方が原音に近い。

*この辺りに住む4種の人々の名の一つ。面白いのはこの地にリンバ人が纏まって住んでいるわけではない。

ブルーボートは後者の系列、この区画を買った河川輸送を営む男の持ち船の名に由来している。彼の家は谷底から程よい距離にある緩やかな斜面中部に建っているが、前には満艦飾が翻っている極く普通の平屋である。この地では綽名として出身地名で呼ばれる他の数人の事業家と同じように彼は山の方から降りて来た。そして、彼らと同じようにこの活動場所では慎ましやかな生活をしている。ブルーボートに建つ十数軒の中には彼の家より立派な家が何軒もある。しかし儲けた金は再投資の他に、出身地での豪邸建築にもつぎ込まれているらしい。

       モスレム休日の翌土・日は市場に人が雑踏する日である。そんな日の満潮時に波止場で彼が客引きをしているのを見ることがある。傍らにもやっている20人くらいは載れる頑丈な木造ボートの舷側には青色ペンキで鮮やかにBLUE BOATと書いてある。

       彼は大地主である。町はずれ、取水地の上流に接したヤシ園を買い取った。彼の生地の名を取ったトンコリリ農場では小川沿いの区画で社会事業に絡ませてNGOを呼び込み野菜作りをしている。

       別の川舟業者Wも町やその周囲で社会的なことをやっている。その風評と日本ではとっくに無くなったwuの音で彼の名を知った。彼もありふれた家に住んでいる。大川を見下ろす開けた斜面の中程にポツンと建っている。この区画が彼のものかどうか知らないが、もしそうなら、酋長行政に支払う永代賃借料はブルーボートより高いだろうな。

       もう一人の男はこの町の富裕層や支配層が住む大川を見下ろす痩せた尾根の付け根に住んでいる。船主協会の理事長で、波止場の端にある仮小屋の様な事務所に座っている時もある。

       この人たちはやや目立つ家に住む伝統的支配層の世界とは異質だが、何処か同業を通して培った仲間意識があって、この町の繁栄に必要だな、と言う予感を持った。或る夜、展望と気前の良さを持った「三人のボートメン」の夢を見た翌日、波止場に行ったら、車の窓から三人が戯けた顔でのぞき込んだのには、たまげた。

       どうやって金を貯め込んだんだろう?と考えたら、内戦の10年間、道路はそこかしこで現場指揮官の恣意で閉鎖され、人や物は検問・没収に遭い、陸運による物流は大いに制約されたはずだ。となれば頼れるのは川運だけじゃないか。しかも「424」の様に没収の憂き目に遭っていない。とすれば、よほど信頼性のある通信・情報網が無ければ10年はやっていけまい。その根底になるものと言えば人間関係じゃないか。なるほど。

この他、ティムニ人社会の事業家には港の市場を仕切る何でも屋(穀物卸、精米、雑貨、ホテル)とかランボーと言う名のミニバス屋だとか、多士済々である。もちろん女の商売人(マーケット・ママ)にも事欠かない。

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     出港した乗合船

4.             B君 僕の相棒 (写真2枚掲載)

Bも山から下りてきた。事業家ではなく職人として。西欧の伝統下にある此処では大学を出なければ、技術者になれず、肩書きの横滑りはない。だから彼は一生、職人だ。

       20年前、彼の育った町に日本の井戸屋がやってきて、彼はそのチームの下で働き、そのまま、水道局の給与名簿に載り、ロクープル水道に配属された。

地方分権の余波で、水道局に所属する多くの職工は国家公務員として給与を貰いながら地方中小都市に配属替えとなったが、仕事はない。どの町の水道も内戦中に壊された中で、原水とは言え実際に給水を持続させたのはロクープルだけである。彼はその維持に貢献した唯一の現場人間で、十年間に培われた体験は機械工の域を遙かに超えたものとなっている。それに彼の人間性が加味され、地域の住人から水道サービスにとって他に得難い人間と見なされている。

       水道局が維持して来た高架水槽の下、給・配水幹線のバルブに囲まれて建つちっぽけな官舎に家族と住んで20年近く、しかも嫁さんはこの町生まれの女だ。だから、れっきとした此処の住民と言える。彼の息子も此処の学校に通っているようだ。           しかし、彼の娘の一人は彼の出身地にある中学校に通っている。僕らのチームが彼の町の水道の残骸を見に行った際、水道局の彼の同僚が我が技術者を案内している間、彼は手に幾ばくかの金をもって中学校の校長に会いに行った。滞納授業料を払って来たらしく、戻ってくると安堵の表情があった。

また、政府経理の透明化で公務員の給与は銀行小切手で支払われるようになったが、この町にも国際市場にも如何なる銀行の支店も見当たらない。最近、県庁のあるカンビアにピカピカの支店が一ヶ所出来たが、彼はそこに行かず、給与を取りにミニバスで首都に往復している。もう一人の娘が首都に住む彼の弟の家族のところから中学に通っているらしい、と聞いた。(了)

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涸れ水栓のある風景

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涸れ水栓のある風景 籾干し

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第12回 カダフィーがやって来た。[大統領選挙余話]

(最終原稿:1011日増補)

              カダフィーがやって来た。数百台の車を列ね、ムアンマル・カダフィがシエラレオーネへやって来た。マリを通ってギニアへ、前日は隣国首都コナクリで5万人の聴衆を前にアフリカ合衆国の展望をアジった。

さすが元軍人である。カーキ色の迷彩服を着用し、リビアから陸路はるばると雨期の悪路をものともせず、濁流の流れる大河を渡り、シエラレオーネ国の現職大統領の生家があるカンビアの町に立ち寄って愛敬を振りまき、僕の働いている町の今ははずれの国際市場を通って首都への道をバチャバチャと水溜まりを広げながら進んだ。

Constructions

道路際の建設現場

SL Encyclopedia 2007 archive

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ミニバス・客の荷物

SL Encyclopedia 2007 archive

さて、今年2月此処にいたときに新聞に記事が載った。

「二人の与党国会議員がメッカ帰りにトリポリに寄ったそうな。何でも大統領選挙の時に与党でモハメドさんの説いた世界を信心する人に力を貸してほしいと言うことだったそうだ。」

彼は内戦の時、隣国のテイラーの肩を持って武器を売ったんじゃなかったのかな?自国の軍需産業育成だから仕方がない、それはそれ、金は金、と議員共は考えたのだろうか。

連日の雨で未舗装の道路には穴が増え、どれも大きくなって来ている。見ただけでは深さは判らない。弾も嫌だが、誰も擦れ違いざま泥もかぶりたくない。625日は、たまたま僕らが首都から現場に動く日だった。僕の住む河港ロクープルへの分岐点まで交通止めとなっていたのが、運良くその規制が首都方向へ動くより早く枝道へ擦り抜けられた。

翌日、稲研の現場差配は、

「タクシー・バイクに3人乗りで分岐まで見に行ったんだ。あそこなら車が撥ねた泥はかぶらないから大勢の見物人だったよ。」

と言った。

              大統領選挙一ヶ月前の712日は選挙運動の解禁日である。雨期の町で調査をしていると、大通りで乗用車、ミニバス、オートバイ、人の行進に出逢うことが多くなった。人は晴れ着、車は泥で汚れている。

17,18日には野党第一党の総裁が遊説途上、ロクープルで集会をやった。地元選出議員はこの党のナンバー3である。内戦後で未だ泊まるところは少ないから、稲研内の宿泊棟は満杯になる。たまたま三つ空いていた僕のところにはスポンサーの金持ち3人が泊まった。内二人は女だ。マーケットママの元締めらしく太って貫禄がある。それぞれ自分の車で、腕っ節の強そうな護衛付きである。

この二日間の行列には踊りがつき、スナック売りも従えて賑やかだった。地元の警察も交通整理に大童だったが、気持ちは楽そうだ。誰も好んで、総裁集団に向けて張り合う行進はない。が、目の届かない院外団になると他党の行列同士が擦れ合う。憂さ晴らしだの、お祭り気分だの、それに暴れるネタには事欠かない。乱闘は彼方此方の町でやっている。此処、稲研の敷地内では、雨上がりの木陰で運動員が農場労働者を誘っている。

選挙日前後1週間、首都外へは禁足、との指示がこの国に住む在留日本人をも管轄する在ガーナ国日本大使館から出た。僕らはこの告示ともすれすれで83日丑の刻前に出国する予定になっていた。728日僕らは首都に向けて動いた。近郊の町の広場に嵐をものともせずカダフィーの看板が毅然と立っている横を走り抜けた。噂では表向きのお土産は言われているほどには持って来なかったそうな。或る国際報道には、米を舟(大きさ記述無し)2隻分、トラクター40台、定員50席のバス、ジープ、軽トラ(台数の記述無し)と出たが、報道規制に引っ掛かって記者は拘束されたそうな。車類は自国産なのかな。先ずは与党の選挙遊説用にでも試用するのかな。

平穏裡に終わった8月11日の大統領選挙は国連監視団の元で開票が進められ、21日午後3時で開票率は97%+、各党の得票率は野党第一党44%+、与党38%+, 野党第二党が14%との連絡が入った。

              9月8日に行われた決選投票の結果は17日に野党第一党党首が54.6%で選出された、と発表された。政治の腐敗で政権交代とはなったが、新政権も市民戦争を招いた腐敗政治で政権交代を余儀なくされた政党である。新党首の見識、器量次第で、少しは変わるだろうと、はかない望みを皆が持っている。

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フリータウン、エコワス通り

SL Encyclopedia 2007 archive

              これで、カダフィーの梃子入れ世界は終わった。もっとも彼にとってシエラレオーネの内政は末梢の問題で、彼の率いる自動車部隊は、東へ象牙海岸からガーナに進み、彼は7月に行われたアクラでのOAUサミットに出席している。彼の頭の中の動きには、しみったれなシエラレオーネ国政の転換とは違って、反欧米主義から汎アフリカ主義への大きな転換がある。

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フリータウン、サニ・アバチャ通り 

SL Encyclopedia 2007 archive

 

     ついでながら、吹けば飛ぶよな我々の案件について言えば、延期された入札は9月17日に開札され、新公益法人の認可も討議される新国会は10月5日に新大統領の施政演説で始まった。去年6月に始まって何度も停滞しているこの計画もどうやら約一年の遅れで、来年8月末には終わりそうな気配となってきた。(了)UFO

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号外!! ホバー沈む。

何と!! この8月に僕を空港まで運んだホバークラフトが航行中に沈んだそうな!! 第11回に予測したように、乗客は誰も死ななかったし、鱶に尻を突かれもしなかったようだ。

来年2月に行くときはフェリーにも乗れないので、空港からフリータウンには陸路で80kmほど大回りして行かなくてはならなくなった。それなら現場に行くのとどっこい、どっこいだから、そのまま現場に直行したいな。

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8月乗船前に写したホバーの雄姿1。

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8月乗船前に写したホバーの雄姿2。代替無しで酷使されたわけだ。

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廃船になったフェリー

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第11回 第二回出張終わりの日々(後編)/西アフリカ・シエラレオーネ国

そして帰路83日―4日)

二人に港まで送ってもらい、82日午後9時半発のホバーに乗って本当に穏やかな海20分で渡り、翌3045分のロンドン行きに乗った。乗り継ぎは半端な9時間なのでホテルで油を売って東京に84日(土)の午後に着いた。

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フリータウン - ルムレービーチ

SL Encyclopedia 2007 archive

役所が動く8月6日(月)一番でJICAシエラレオーネ事務所から突然1通の連絡・通達便コピーが届いた。見ると、

*シエラレオーネ沖における定期連絡船の転覆事故について*

>82日午後10時頃、嵐によりシエラレオーネ沖で

フリータウンとカンビア等を結ぶ定期連絡船が転覆し

死者行方不明者が200名近く生じている。

>○レスキュー隊が出動したが、助けるすべがない状況。

>○ルンギ-フリータウン間のホバークラフトとフェリーの運行に

影響は生じていない。

>今後、船外機式の連絡船の利用は禁止いたします。

>ルンギ-フリータウン間のフェリーも、

著しく老朽化が進んでおりますので、利用を禁止いたします。

>ホバークラフトが時化等により運休している場合は、

陸路による移動をお願いいたします。

我々のシエラレオーネ/東京間の復路は二度とも一見ニアーミスのような感じとなった。前回は我々が搭乗した日の前日に運転を再開したヘリが2ヵ月後に炎上墜落して全員死亡。

今回はPM9時半発、我々が乗ったホバーは穏やかな海の上を走ったのに、やや遅れて数十キロ西方海上で嵐が起こり、定期船が遭難し、全員死亡。

折角の機会だから、報道について注釈を一つ二つ。

カンビアは僕が働いている県の県庁所在地で、国の西北端を流れる大川沿いにある。我が川港、ロクープルの上流・数十キロに当たり、雨期満潮時に10人程度の乗合舟が往来するに過ぎない。

首都への海上定期船は河口の港から出る。船外エンジンつき小船で近隣川筋から来た客はそこで乗り換える。25年前カンビアに行くには先ず河口右岸にあるカシリで乗換えていた。また、200人はきっとフィリピンやインドネシア島嶼国でよくあるように定員オーバーだったに違いない。

時折、海上交通の遭難はあるようだ。ちなみに僕の相棒ブレは、

「俺は泳げないから、首都に給料を取りに行く時には高くても絶対バスで行く。」

が口癖だ。

フェリーはシエラレオーネ河の河口を渡る。船は痩せても枯れても日本製だ。ただし25年前に既に中古だった。フェリーを禁止して陸路を行けば、180kmの迂回となる。こんなケースは稀だが、海がホバーの飛べないほど時化ていれば、飛行機も飛ぶまい。ホテルでの寝待ちが「待てば、海路の日和あり。」だ。

待てよ。前回はホバーも故ヘリも部品待ちで、我々はフェリーで来たんだよな。

真夜中に着き車の中で眠りこけていたので、気が付いたら車はもう対岸に着いたフェリーから出るとこだった。まあ、それくらい静かに水面を動いたわけだ。

河舟輸送は海上に比べれば、ずっと安全だ。風波が強い時、舟は船着場に避難して来る。25年前の乾期に、僕は西北端の大河から一本、東南側にある大河の感潮域中流に住んでいた。車道は少なかったから調査には舟をよく使った。大河筋は8HPから15HP程度の船外エンジン、支流に入ると手漕ぎが多かった。一度カシリの先まで舟で日帰りの旅をした。最寄りの船着場から全長10mくらいの屋根無し舟に乗った。岸辺のヒルギ林に小さな黒いサルがいた。乗り合いだから右岸や左岸のあちこちに寄って客を拾う。いなければ少時待つ。手を上げる客もいる。12月はミカンの季節、何処の船着場でも季節商品としてコラの実やタバコと並べて売っていた。農民は稲の収穫中で客は少なく、いたらミカン、バナナ、サツマイモ、その茎・葉、カボチャの種、ニワトリなど農作物を商う女くらい。さて、ようやく、河口にある乗換え港トゥンブに近づいたと思ったら、目の前をカシリ行きが出て行く。待ちである。ここには小さな桟橋があり、市場、石油タンク、精米所がある。そして船大工が舟を作っている。

乗換えた舟は少し大型で20人くらい乗れる。屋根が付いている。乾期で潮が引いているので桟橋は役立たず。客は一人ひとり背負ってもらって乗換える。時にはカニの群れが甲羅を干す砂洲の間の水道を右に左に1時間半、カシリに着いた。首都への定期船、更に大型の木造船が船がかりしていた。給水タンクも見える。ドイツの援助だそうだ。港にはラジオの修理屋がある。よしずを張り出したディスコがある。マラタ人(インド・ムンバイ周辺の人)がやっている。干魚が積まれ、舟は上流対岸にあるマンボロに舳先を向けた。政府の精米所があるこの港では上げ潮を待つ砂利舟が目立った。その行き先はロクープルである。

25年たった今、そのロクープルで僕は砂利置き場を見ている。船着場は我々の取水口がある支流の大河近くで、二種類の砂利はそこからトラックで内陸部へ運ばれている。引き潮時は、いつも船大工がトンカチ、トンカチと舟を修理している。水道の拡張工事では共同水栓が其処に作られることになっている。

とまれ、ほどほどにやっていれば、無事に済む場合が多い。過ぎたるは猶及ばざるが如し、とは言っても経済行為は過度に近づくことを要求しているから、人生はスリルに満ちている。それは乗り物に一番端的に現れている。僕らが乗っている地球の色んな局面が過度になって来ているところも、乗っていること自身宿命だから、宿命の要素が掛け合わされる。だから下手をすれば話は止め処なくなるばかりだ。これも過度である。やれやれ。(了)

         フリータウン港:SL Encyclopedia 2007 archive

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第10回 第二回出張終わりの日々(前編)/西アフリカ・シエラレオーネ国

現場店じまいの二日 [7月28()29()]

明け方雨になった。朝飯を喰って、皆にさよならし、事務所へ車で行き、外せる機械類は皆、車に積んだ。

Photo

稲作研構内―工事事務所への道

締めに来ていた水道局総技師長のヴァンが動き、我々3人が乗った車も動いた。B君に今後、留守中の指示を出している副技師長のは未だだ。彼には「424」を運んでくれるように頼んでおいた。

近道なので掛け小屋が並ぶ国際市場の中を通る。辺りは薄暗い。店を開ける時間なので、皆出たり入ったりしている。軒先にぶら下げられた空色の運動靴数足が少し濁った海を泳ぐブダイのように、けったいな鮮やかさで揺れていた。表の電気屋で先日買った中古の蛍光灯二本のうち点かなかった一本を返した。

この地域の表土はラテライト、泥々にならないから上下動は少なく、水の溜まった大小の穴ぼこを避けて左右に振り回されるだけだ。2時間近くたってポートロコを過ぎたところで道端にタンクロリーが横転している傍を通る。ルンギ空港へ首都の港から航空燃料を運んでいる途上だ。

人・物・車は約8kmの河口を渡しで、後15km弱を道路で行く。金がある人はヘリに乗る。ヘリが落ちてからはホーバーに乗る。

どれくらい迂回するかって。200km足らずかな。ただ、これで燃料は人・車混載の船には積めないんだな、と分った。

舗装路になると横揺れが無くなり、ほっとする。首都に近づくにつれ雨脚はますます繁く、山側に厚い雲の壁が立ちはだかるようになる。海抜約700mまで持ち上っている貫入花崗岩・斑レイ岩の山塊は長さ20km弱の海岸線を形作り、雨季に5000mmの雨を呼び込む。我が現場ロクープルの倍近くで、日本なら大台ケ原である。しかし半年でだから強度は倍だ。滝の中を走るようなものである。車軸を下す雨はワイパーでは追いつかない。

道は川になる。砂漠の水路を渡るコーズウェーとか日本なら四万十の水没橋とか、不時の出水は構造物の上を流れ下る設計になっている。此処では毎日だから、高床で、しっかりした足回りの車で無いと動き難いが、走っているのは古ぼけたセダンが多い。しょっちゅうエンコして邪魔だけれど、その運行振りは健気なものである。

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フリータウンへ入港するローロー船 (Bホテルからの眺め) 

Bホテルに入り遠くの波浪を眺め、植木の葉を過ぎる風の音を聞きながら遅昼を喰った。夜になっても嵐は続く。泊まった夜は一匹殺すとやがて次が現われる按配の悪さで、止め処(ド)がなかった。部屋には蚊が凝縮していたな、と分かっても後の祭り。

              朝も大嵐の中で飯を喰った。メイドに、夕べは10匹殺した、と言ったら、

              「あらそう、スプレーしとくわ!」              とおおらかな返事。自分の家じゃ蚊と共存しているのだから、客の寝不足は分からない。ここの従業員はお客には根っから親切だが、切実度が分からなければ仕事の順番は付けようが無い。*1

*1 次の晩は2匹、次の次はダニ系も出てきた。それでチップを減らした。第4夜は一匹も出なかったが、ダニは出た。最終夜はどうやったか知らないが、蚊もダニも出ず、本当に良く眠れた。

              熱帯だが、海は寒流だ。嵐の日は寄せる波濤の白さが寒々しい。3,4日続きの嵐では客はいない。昼前、ようやく風が収まり雨も止んだ。

              食堂に行くと、

              「あんたは福の神だ。雨が止んだ!」           と皆、にこにこ顔だ。

              「テラスで飯を喰ってくれ。」

              テーブルや椅子を傾けて水を切ってくれる。テーブルクロスなど衣類を持ったメイドが後ろを洗濯場へ往き来する。ウェーターがやって来て、

              「着替えが底を突いてしまった。これを見てくれ。」    とチョッキを引っ張り、濡れた靴で足踏みした。

              小さなプールの横で飲み喰いしはじめたら、風がぱたりと止み、日が射した。パラソルが運ばれて開かれる。頭上に穴が空いて絹層雲が棚引く青空が覗いた。なんと!目ではないか。メソなのか、もっと大きな規模なのか。周りの積乱雲はひ弱い。東側の雲が青空と織り成して薄く南へ続いている。今晩くらいまでは小雨交じりで晴れも続くだろう。

となれば、俺の晴れ男の看板もそう剥げはしまい。しかし、無風の時は短く、風の音が立ち上がり、パラソルが丸テーブルに載ったコーヒー茶碗を揺り動かし始めた。

この岬を目指してコンテナー船がやって来て右に折れた。切り立った船尾が見えてローロー船だと分かった。国旗をなびかせた小さな船外エンジン木造船を見下ろしながらすれ違う。首の白いカラスが一羽東に向けて飛ぶ努力を続けている。下を見ると助手を引き連れた修理のおじさんが給水タンクをトンカチやり始めた。雨が止むとかくのごとく、ものみな動き始める。

夕方のテーブルにはナフキンが出た。開けられた食堂の窓から微風が流れ込み、日没前の日の直射と海からの反射が同時に差し込む穏やかな世界となった。                        

首都での日々 [730日(月)-82日(木)]   

僕の仕事は一年後にチェックに来るまでの現場の流れを考えることだ。土木屋さんは9月に行われる予定の入札準備だ。

我々が仕事の出来るところは今や水道局にも出来たが、宿から近いJICAで働いた。午前8時半に行き、午後5時まで仕事、最終日は午後6時まで働いた。雨は降ったり止んだりしている。まあ、毎日代わり映えしない。

だから後は飯の話だ。僕は前の晩にホテルでピザを焼いてもらったり、サンドウィッチを作ってもらったりして事務所で弁当を食った。昼雨の要素を考えないので気が楽だ。

普通なら晩飯はホテルなのだが、団長が3人で飯屋に行こうと言い、二人のJICA事務局職員とも別れの会食となって、4晩とも外になった。どちらのホテルも洋か無理してもマグレブなので、変わったものとなれば、結局シナ飯2晩、コリアン2晩となった。一晩目は北京飯店、3人で鍋を囲んだ。午後6時前は未だ店開き前なので、店員がマージャンをしている横で始めた。肉は羊が無く、牛、これにエビ、豆腐、春雨。垂れはピーナッツ・ソースに合わせ醤油、良かったのは刻んだ香菜があったことだ。一ヶ月川魚、鶏とピーナッツ・ソースのパーム油炒めに昼は現地産米(乾期はタイ・南シナからの砕け古米だったから、今回は新米で旨かった。)、夜はパスタかクスクス、時には揚げプランテン(バナナ)の献立だったので、目先が変わって楽しめた。

二晩目はコリアン。食堂は大通りを入った屋敷街にあり、二階は宿屋になっている。此処は井戸掘り屋さんもやっていて庭にボーリング機械が置いてある。

              プルコギ、チジミ、エビ焼きスパゲテイ(そばの代用)、海鮮スープ、どれも本当に旨かった。お上さんが福相でオモニ料理の雰囲気だ。地元の女の子のウェイトレスの笑顔も良かった。おかげで杖を忘れ、車に乗ってから気が付いた。

              もう一人の団員が去年だか嫁さんとソウルに数泊の旅行に行ったと言ったので、団長が、帰りの車で、

「朝鮮語で、ありがとう、ってどう言うんですか?」

「何とかハムニダ、むにゃむにゃ・・」      

脳力、朝の半分の夕方では、全く思い出す引っかかりが無かったが、二人の間でハングルに関する会話が進んだので、出しゃばって講釈する羽目になり、

「漢字を知っているとうまく当てはめられる場合があるよ。」

その途端に、「安寧」が、次いで「感謝」が浮かんで来た。

それで、「有難うは、カムサハムニダ。」だ、と言えた。安寧の繋がりはホテルの部屋に入って「アンニョハシムニカ」と出て来て目出度し、だった。

朝、杖を取りに寄ったら、車が来るのを見ていた店の人がわざわざ門まで持って来てくれた。頭を絞ると「カムサハムニダ」が出て来て間に合った。そしてその晩も職員一人を入れた4人でほぼ同じものを喰う流れとなった。記憶の引出しは面白い。もっとも僕のハングルのストックはこの二つの挨拶語だけだ。

最終日は午後7時から所長の行きつけの上海飯店で5人、肉マントウに始まるアラカルトで締めた。(前編終わり)

UFO       

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第9回 僕の2007年 (後編)

 2. 手術のあとさき (後編)

手術にまつわる話は2005年に起こった現象から始まった。

年寄りには足先が冷たくなっている人が多い。僕の場合はこれまで色々運動による対抗策を考えても効果は全く無かった。なにせ毛細管は詰まってるので衰えたポンプでは吸い上げられないのだ。

ところが2005年の春から時折、熱の塊が一つ二つ左脚を下ってくる感覚が起こった。夏を過ぎた頃、ある日気がつくと足先が冷たくない。その冬は左右とも靴下無しで、ほのかに暖かく感ずるまでになった。僕の努力結果ではないことは明らかだが、ダラ幹がやる程度の運動は続けた。

2006年春のある日、左ひざの関節が心もとなくなる一瞬があった。痛みはまったくない。60年前の外傷の結果、ふくらはぎは僅かに麻痺しっぱなしなのだが、これまで農作業、登山、ラグビーと言った程度の労働/運動には耐えてきたのに、今度の不具合は気がつくたびに進行していた。

それでも僕は馬鹿の一つ覚えで筋トレに励んだが、左脚全体が麻痺してしまって夏の終わりには他の方法、つまり治療法を探さねばならなくなった。

そこで先ず老人ホームの雇われ管理医をしている45年来の友、80歳の医師を訪ねた。僕が彼に自分の身体のことを尋ねたのははじめてなので彼は「おっ。」と言った。

「先ずレントゲン、MRICTを撮って原因究明だな。」          と言われた。もっともである。

彼は最近職場でリハビリ指導中によろけた患者にもたれかかられてひっくり返ったのがきっかけで2度目の脳梗塞になり、復帰したところだった。大昔、僕と知り合った頃、彼は先輩医師がところもあろうにインド・アグラで始めた患者の少ないハンセン氏病専門病院の尻拭いでデリーに居た。治療よりは経営の維持に日夜苦労していた。その後、件の先輩医師は勲章を抱いて航空機事故で死んだ。

              しばらく米軍軍政下の沖縄で公衆衛生指導のため島々を巡回したあと、彼は幾つかの老人病院の雇われ院長をやった。治療後リハビリをやって出来るだけ早く病人を自宅に戻す方針の彼が院長の病院はいつも満杯の盛況だったが、同時に自分が理想とする老人診療所を作る機会を探し続けた。日本で老人化が一番早く進んだ淡路島の内陸みどり町で町の行政との話し合いが進み売れ残った工業団地跡の一区画を借り診療所を立ち上げる話まで行ったが、土壇場で地元医師会に専門病院は時機尚早とけちを付けられておじゃん。

              ついに三重県熊野市の過疎地で医師不在の診療所を二つ見つけ、自分が経営者となってリハビリ機材や車等を持ち込み、月曜午後から土曜午前までの診療時間で運営をはじめた。しかし、かつての林業の村は過疎化を通り越して老年人口そのものが減り、自身も寄る年波、ついに13年間やった診療所を閉じ、他人経営の医療法人で現職についている。

              なすべきことは分かったので、次は東京から南東へ、大海の手前、大河の向こうにK診療所を訪ねた。かれこれ35年振りである。僕が南インドでのちっぽけな社会実験をスポンサーの情勢変化で中断を余儀なくされ帰って来た時、次の飯種を探す前に此処で何週間か掛けて痛んだ身体を直してもらって以来だから。      

診療所から自宅へ通ずる廊下を歩いて扉を開けると其処に笑った顔があって、俺と同じように杖を突いている男が立っていた。顔を見合わせた一瞬あっけにとられて、声が出ない。

「なんして、来んかったのよう!」

「病気してないのに、来れるかよ。俺がうろうろしてたら邪魔っ気じゃろが。」

10年前、続けさまに脳梗塞にやられてよ、2度目のは小脳だったから、この様(ザマ)よ。」     「幸い、頭と口が動くので、診察は出来る。」

経緯を聞いて、彼は

「ちょうど良かった。明日、週一で整形の医師が来るから診てもらいなさいよ。」

飯を喰いに出て積もる話を聞き、泊めてもらい、翌日一番でN医師に丁寧に診てもらった。

「後で、整形の専門病院宛、紹介状を書いておきます。」

それで、次にすることは決まった。

1960年後半、M君等、東京大学医学部第二外科の大学院生が自主管理による診察を始めて、いわゆる教育体制と対峙し、その後、国内に広がった学生紛争のきっかけを作った。彼は当時、病院の裏手で犬の心臓を切ったり繋いだりしていたのを止めて医療行為に邁進した。しかし直ぐ日本の社会の根っこにぶつかり、紛争の不毛性に気づき、退学して町医者になる決心をした。丁度K湾掘削工事が始まったところで、現場に外科病棟を建てた。僕は南インドの計画を進めながら、一族郎党で少しそれを応援した。

             

              混むと聞いたので、1211日はK病院に6時着で行き、10時頃、外来のO担当医師から丁寧な問診・触診・機能テストを受けた。O医師は首から腰までのX線とCT写真を見ている。

              「うーん。これは治ってもな。むにゃ、むにゃ。」と独り言が聞こえた。

「内のMRIは混んで待たなくちゃならんから、他所で二枚撮って来てください。」

と撮影部位と住所を書いた紙切れをくれた。

写真を持って13日に行くと、O医師は机前の磨りガラスの照明板に貼り付けた3種類のネガ写真を見せながら、紙切れにゴム判で幾つも漢字の連なった病名を押して、これだ、と言った。そして、       「手術以外、あれこれやっても無駄です。」

ときっぱりした口調で言った。 見たら、其処には「頸椎後縦靱帯骨化症」とあった。これは難しい。漢字の羅列のことである。ところが治療も難しいと、直ぐ後で教えられた。僕が前回のつぶやきと今回のご託宣の差に戸惑っていたら、

「まず入院予約をして来てください。」

待ちが3ヶ月、の答えを持って帰ると、沢山の申請用紙の必要なところに所見や署名をしながら、「難病だから、これを保険所に直ぐに提出しなさい。」

「待ちの間、外地へ45日間の出張に行きたいんですが。」

「あなたのは進みが遅いようだから、いいでしょう。」

出張中に役立つものを探すつもりで売店に寄ると、書棚の前に積み上げられた文庫本があった。[岩城宏之著、「九段坂から。-棒ふりはかなりキケンな商売―」朝日文庫 2003, pp312]

パラパラッとめくると、氏が50歳代の198711月にこの病院で僕と同名の病を治療するために首の手術をした記録が中心である。で、買った。そして数日かけて20年前の状況を学んだ。そしてこの系統の病気がオーケストラ指揮者の職業病であること、リハビリの重要性の他、術前・術後に役立つ対処の仕方を幾つか学んだ。

1月、出発2日前にO医師に病状の進行度を見てもらい、入院係りに確定した帰国日を告げ、旅行用に岩城氏推薦の上履きゴム靴を買った。

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僕が手術をしてもらった病院

最初の乗換え場所アムステルダムは17日夜から18日昼にかけて死者が出るくらいの大嵐で、二人旅の同行者M団長の親切心に和らげられたとは言え、左脚木偶の坊での移動は、うまい具合に、大変強烈な訓練となった。だからその後の経験はたかが知れたものだったが、麻痺は少しずつ進行し、日本に着いた時には右足先と両手にも広がっていた。

37日に東京に着いたら、入院の用意が出来ている、と病院からの当日付け留守電があった。翌日、日が決まり、13日に(既に本で)勝手知った5階の、看護室、トイレに一番近い4人部屋506 号室に入った。

隣のベットには病棟の主の貫禄があるU氏がいた。山賊の首領の感じだが、根は非常に親切な人であることは直ぐ分かった。彼は僕と同い年くらいで昔、岩城氏の直ぐ後に此処で同様の頚椎手術を受け、今は腰椎手術後の回復期を過ごしている。病気そのものは言うに及ばず、病院、医師の歴史・変遷についてこの生き字引から多くのことを学べた。そして20年の技術革新で手術法もずいぶん手軽になった、と聞いて、気が楽になった。

手術前夜、O執刀医師は写真を指差しながら、手術を後ろからやる理由(岩城氏、U氏は前から)と、術後の回復期待度50%と言った。ああ、これがつぶやきの意味だと覚った。

              手術は朝一番で予定通り1時間半で終わった。術後の経過は順調すぎて、食事で失敗を犯し(海外出張による疲労度を軽視)、院内感染で軽い風邪に罹る不手際が重なって、手術傷の直りが身体の回復を上回り、その分リハビリの進度が遅れ、花見は窓越しでした。

        術後数日目の夕方、寝ぼけた頭で目を開くとどうも様子が違う。目の前に壁があった。そうなると立っているはずだがそんな感じは全く無い。よく見ると壁は天井だった。重力直角だ。僕は岩城の記述を思い出したが、だからと言って、どうにもならない。やれやれとしばらくの間ごそごそしていたら治った。幻覚はそれきりだった。故岩城氏の場合5日続いた。手術を取り巻く環境がダンチだったんだから当然だ。

リハビリのW術師は親切無比、指導は的確で歩き方の基本から教わった。

5階廊下で補助道具に頼って歩行訓練をしていると、隣のインド大使館の庭が見えるところがあった。1960年にそこで国費留学生の試験を受けた時と何も変わってない景観を全く思いがけない視点から見たので、その時の印象を極めて細かく思い浮かべることが出来た。

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僕の退院後、建替えの始まったインド大使館

仮免で毎日、毛並みの良い猫と住む身なりの整ったホームレス氏のベンチ傍を通って、花見時期が終わった千鳥が淵、靖国神社、北の丸公園をしこしこと歩き、五月の連休明けに退院した。

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          千鳥ヶ淵に住むネコ

 

リハビリを兼ねた6月下旬にはじまる1ヵ月半の海外出張は許された。しかし行き先は雨期に入っていたので思ったほど訓練は出来なかったが、25年振りの「424」とは毎日会って話す期間があって心が和んだ。

    役務契約が締ばれてから実際に出発するまで7ヶ月経っていたので、1月第一回目の出発前の会合には左脚が撚れた姿で出席した。施主、委託者側は不具の老人を見て、さりげなく眉を顰めていたが、第二回目出発前の会合では何気ない安堵感が漂っていた。

こうして僕は1年足らずの間に25年から60年前の自分の軌跡上の8点(身体上2点、国の内外で会った人5点、場所1点)にゆくりなく舞い戻った訳である。

第二回現地作業が終わった今、僕は第三回目出張の準備作業をしている。予定は工事完了後の来年45月ごろだ。雨期が始まって誰も天然の水で用が足りる時だ。水道代を払う気持ちは減退する。一方、811日の大統領選挙が決選投票に縺れ込み9月に再選挙となったので行政は遅滞し入札事務も少し遅れたが施工業者は決まった。

いまのところ、僕の首はうまく回っているし、足の踏み込みも順調に強くなってきているが、骨化症状の進化を止めるものではない。足先は前ほどではないがほどほどに冷たくなって来ているし、四肢の先端には少し痺れが戻ってきている。だけど、歩けると言うことは大変幸せなことだ。

まあ、あれやこれやあって、時は経って行く。すべて、世はこともなし、に見えるところへあれやこれやが入って、来年のことを言うと鬼が笑うことになる。(註:9月記)

(了)

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