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2007年12月

編集後記12月13日 UFO

読んでくださった方々へ、

長い間、お付き合いいただいて有難う。

お話はこれでひとまず終わりとなりました。

来年2月、5月、8月中心に1ヶ月弱単位で

現場業務に出掛けます。付け足す記事があれば、

その都度、何らかの方法で掲載します。

このシリーズは三和書籍ブログのアーカイブ

に置かれると思いますが、シエラ関係を含め

今後の記事は一応、2005年8月登録後

ずっと死に態だった下記URLに

のらりくらりと掲載する予定なので、

どうぞ、お立ち寄りの程を。

http://tawake.cocolog-nifty.com/norakura/

UFO

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付録2:地図

1.西アフリカ

2.シエラレオーネ

3. Rokupr and its environ

Imgp0047_exposure

取水支流名: Mesa

稲作研取水支流名:Mature

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付録1:写真集

各回記事に添付する作業が途中で編集機能不具合になったので、

残ったSL Encyclopedia 2007 archiveの写真の内

転載可能分6枚を纏めて掲載します。

1.田舎の生活 (2枚)

1-1 ミニミニ・マート

1-2 パームオイル売り

2.市場 (4枚)

2-1 農民市場

2-2 市場通りの雑踏

2-3 洗剤売り

2-4 リンゴ売り

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第14回 ある女王の死 –シエラレオーネ-

註:この小文は25年前の出張後に書いたもので、少しは歴史に触れている。

           これを今回のシエラレオーネ便りの最終稿とする。(UFO)

       (写真2枚掲載)

英国ヴィクトリア女王治世の頃、西アフリカの片隅にMadam Yokoと呼ばれた女王がいた。正確にはMende族の中で一番大きな領土を持つ連合酋長領の盟主である。

この辺りは今シエラレオーネに属している。国名は1462年ポルトガル人Pedro da Cintraが海岸にそそり立つ斑レイ岩の山をライオン山脈と名づけたのに由来している。この小さいながら年間5,000mmもの雨を呼び込む山塊の麓にFree Townがある。西アフリカ随一の天然港で山から流れ出る水も美味である。

1787年には英国法人が解放奴隷を再定着させる場所として、この地をMende族に隣接して住むTemne族の酋長から買い取った。19世紀に入って英国はこの地を植民地とし、1986年には周囲の酋長領を保護領とした。

Madam Yokoの在位は1885年から1906年までで、彼女は部族戦争の混乱期や初期英国統治下の反乱を乗り切り一応の安定を見届けた後、自分の権勢が絶頂のときに自分の意思で黄泉の国へ昇華したのである。

女酋長の存在は珍しいが、この種族にはSali法のように女が酋長になってはいけないと言う慣習法は無かった。彼女がそうなったのは社会慣習に見合った自身の実力である。アニミズムに満ちた世界とは言え、彼女にとって呪術は実力の内ではない。部族内はともかく、押し寄せる西欧の工業力に対して仮面の向こう側からやって来る呪力は物の数ではなかった。

彼女を育てたのは部族社会そのものである。彼女は部族の女学校、Sando Societyで部族の女性として知らねばならないしきたり一切を他の女の子と同じように学んだ。現在Free Townの雑踏の中で時折、仮面の踊り手を中心にした一団が練り歩くのに出逢うことがある。

「あれは何だ?」と聞くと、「Secret Societyだ。あんたも一緒に踊らないか。」との返事である。

それじゃ秘密性はなくなってしまったのか。そうではない。踊りの部分はもともと誰にでも開放されていた。そう言えば、未だ社会の成員と認められていない子供だって踊るではないか。秘密なのは生産、戦争、医療や呪術の技法でありその伝授は今でも村に行けば続いているところもある。

              Free Townの町外れで手をかざせば、入り組んだ海岸線一帯に何所までもアブラヤシの林が続いているのが見える。

Madam Yoko在世の頃、英人がヒルギの群生する海岸の奥に自生するアブラヤシを植林し西欧市場に油や核を運んだ。このヤシは新大陸に運ばれアフリカヤシと呼ばれている。一方、ヒルギは切り倒され雨期の川の増水を巧みに利用してアジア種の稲が植えられるようになった。籾のこぼれ落ち易いアフリカ原種は見捨てられ道端に生えている。今はその特性を生かしてアジア種と交配した品種が生まれている。

更に目を凝らせば整然と同じ高さで広がる背の高い林のところどころに群を抜いて一人聳える巨木に気がつくだろう。幹は北国の巨木よりはアンコ型で枝振りは柔らかく広やかである。ワタノキだ。この木の大きな傘の下に人々は住んで来た。教会やモスクの建造物よりのびやかで原子核の傘よりは少し安全だ。

ワタの木

SL Encyclopedia 2007 archive

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ワタの木

SL Encyclopedia 2007 archive

Soceityはカッサバ畑の向こうに広がるbushで開かれる。時折チンパンジーも覗こうと言う場所だ。別々の場所で、男の子たちはとりわけ戦いや狩の困難なときに必要な克己と忍耐、心を解く音楽を習い、女の子たちは、家事は言わずもがな、女の役割全般と音楽を習う。

                   Yokoの天賦の才のうち先ず踊りが人の目を惹いた。そこで望まれてある酋長の嫁になった。これはよくある話だ。今でもイサベラ・ペロンの例がある。間もなくその酋長が死ぬ。葬式にやってきた大酋長が友人の思い出にと彼女を連れて行った。彼女はその地で新しい学校を開く。何しろ踊りの名手のSocietyである。母親たちは競って娘を入学させた。やがて卒業は社交界への披露と同義になった。出来の良い生徒は有力者からの引き手数多である。

              一方、酋長には異人政府に顔を出すのを毛嫌いするものが多かった。大酋長もその一人で会議にはいつもYokoを代理出席させていた。今度は彼女の外交手腕が発揮される場面である。彼女の名前は更に広い地域に知れ渡るようになった。

              大酋長が死ぬと彼女が後継に推挙された。その後、彼女は近隣の酋長領を次々に傘下に加え、死んだときにはその数は15に達していた。男は集い来たり、その中には英国に反抗した酋長も居た。

              伝えるところによれば、彼女は毒杯を仰いだ後、侍女に、

              「もう充分人生を楽しんだわ、権力も男も。後は徒に齢を重ねるだけじゃないこと。」     と話したと言う。

              彼女にはNepotismの根源である子供が居なかった。彼女が最初に輿入れしたとき連れて行った弟は領土が旧来の15酋長領に再分割された際、酋長の一人にはなっている。

              とまれ彼女は無造作に素顔で橋を渡って行った。(了)

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第13回 人物素描 

1.             県会副議長とロクープル・ロバト地区選出議員 (写真1枚掲載)

僕が町で最初に出会った人たち

始めてロクープルを訪ねたときは旧道を通った。入り口に小・中学校があって、その校庭にいたオートバイに腰掛けた男と背の高い男が我々を出迎えた。オートバイが副議長だ。

第一声が「この中学校にも水道を引いてくれ。」         後で調べたら、水圧が足りない。拡張計画で今までより200m近いところに共同水栓を新設することが関の山だった。

県会の議席数は22、内20が民選である。マグベマ酋長領は3議席を持ち、大酋長も別個に終身議席2の内の1議席を持っている。副議長は国際市場のある隣の選挙区だ。125ccの自家用オートバイに乗って動く。元教員の議員が動くときは相乗りタクシー・バイクの後席に大きな身体を乗せている。時には運転手との間にもう一人男が挟まっている。

副議長は昨年奥さんを亡くした。その話を聞いて、何となく僕も哀悼顔になっていたら、いや、後二人嫁がいて、子供の総数は、エーっと、21人だったっけ。

副議長は与党、議員は野党第一党、此処の集会では副議長が仕切るが、我が親友、親友と、議員を立てること、立てること。ちなみにこの辺り選出の国会議員は野党第一党の長老だ。25年前、僕がいた農業省地方センターに出入りしていた、いわゆる農業議員で、「424」も顔見知りだ。

雨期に入り、大統領選が始まると、当然副議長はやって来ない。たまたま我が案件のことでカンビアの議会に行ったら、副議長は日焼けした顔で懐かしそうに挨拶した。

議員は単純労働ではない仕事にでも町の若者の雇用機会を逃さない。我々が何か作業を始めると、やって来てやいの、やいのと水道局幹部を突き上げ、押しつ、押されつの末、一人や二人雇わせることに成功する。

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    涸れ水栓 樹下の授業

2.             フラー人のお女将さん

フラー人は牛飼いが生業で、灌木帯や田の中か、町はずれに住んで、町の市場に牛肉を売りに来る。しかし牛連れでは町家に住めないから、商売人にならざるを得ない。しかしフリータウンやコナクリでも分かるように、肉屋の分野を越えて立派な商人が多い。

ロクープルの場合も同じである。旧道の入り口に一族の小さな集落があって、昼は隣村との間のブッシュに20-30頭に一人の牧童をつけて放牧し、夜は裏庭に連れて帰る。

アフリカで牛と言うと眠り病に対する免疫のある大型で瘤のあるゼブ種を思い出すが、フラーの牛はこの辺りに住むU’dana種である。もちろん眠り病耐性、しかし小型で非力、役牛にならない。だから、この辺りでは牛車もなければ、牛耕もない。

村長(ムラオサ)は温厚な老人で、こまめに村人(ムラビト)の世話をしている。長男は隣の敷地にある中学校の教員だ。

この小さな集落に、国連難民委が寄贈した小さな建物があって、そこに幼稚園と、即売場付きのガラ染色工房がある。

園は私立で、150人の園児を3人の先生で面倒を見ている。園長さんは僕の幼稚園の園長さんのように頼り甲斐がある暖かい感じのする婦人で経験豊かな人に見えた。

波止場通りは坂道で、大店(オオダナ)がいくつか並ぶ。地元ティムニ人やレバノン人の店に続いて、中腹、共同水栓の後ろに大きな二階建て鉄筋の建物がある。地元フラー人のものだ。その向かいにバラックが続く。反乱軍に選択的に破壊された一区画である。そのひとつに二軒長屋があって、軒の縁台に中国製プラスチック家庭用品が並び、軒下の物干し紐から染め切れやニットの小物がぶら下がっている。見ると、しっかりしたソファに座り、しっかりとした風貌の女将が横で店番をしている。この人物が幼稚園と工房の経営者である。園児が少なくなると、月謝を負ける商売感覚がある。吊るしてあるのは工房の製品だ。裏に水道の専用栓があって、レバノン人ともどもポンプを動かすエンジン燃料代の集金世話人になっている。我々が水道復旧に来ているのは、よく分かっていて、愛想が良い。時には、手をあげて我々の車を止めパパイヤをくれたりする。

3.             三人のボートメン (写真1枚掲載)

僕は何人も居る川舟屋の中で偶々三人と顔見知りになっただけのことであるが、この三人の存在がこの町の現況を理解し、将来を考えるのに都合良かったので一括りにした。ボートマンと言う紛らわしいカタカナが直ぐ浮かんだのは、昔「(一隻の)ボートに乗った三人」と言う愉快な小説を読んだのが何所かに引っかかっているからだが、これもまた紛らわしい舟と人の関係である。

警察署の裏、やや急な谷を包む小さな窪地にブルーボートと言う変わった地名の集落がある。

              さて、此処の地名にはティムニ語らしいPetifu, Makatic, Robalan*1系列の古くから人の住んでいたらしい地名とWaterloo, Savage Cornerと言った英語系列のとがあり、時にはもろにアラブ語のMadinaとか混合のLimba*Cornerのような地名もある。

*1 Roは定冠詞のような働き、Rokuprの場合、kupr(川岸の砂浜)は普通名詞。他に便法も思いつかないので僕はロクープルと仮名書きにし、アクセントと長音を同一にする誤りを犯しているが、ロクプールと書く一般日本人の慣習よりはましだ。もし太文字にアクセントがある表記法があるとすれば、ロ-プルと書いた方が原音に近い。

*この辺りに住む4種の人々の名の一つ。面白いのはこの地にリンバ人が纏まって住んでいるわけではない。

ブルーボートは後者の系列、この区画を買った河川輸送を営む男の持ち船の名に由来している。彼の家は谷底から程よい距離にある緩やかな斜面中部に建っているが、前には満艦飾が翻っている極く普通の平屋である。この地では綽名として出身地名で呼ばれる他の数人の事業家と同じように彼は山の方から降りて来た。そして、彼らと同じようにこの活動場所では慎ましやかな生活をしている。ブルーボートに建つ十数軒の中には彼の家より立派な家が何軒もある。しかし儲けた金は再投資の他に、出身地での豪邸建築にもつぎ込まれているらしい。

       モスレム休日の翌土・日は市場に人が雑踏する日である。そんな日の満潮時に波止場で彼が客引きをしているのを見ることがある。傍らにもやっている20人くらいは載れる頑丈な木造ボートの舷側には青色ペンキで鮮やかにBLUE BOATと書いてある。

       彼は大地主である。町はずれ、取水地の上流に接したヤシ園を買い取った。彼の生地の名を取ったトンコリリ農場では小川沿いの区画で社会事業に絡ませてNGOを呼び込み野菜作りをしている。

       別の川舟業者Wも町やその周囲で社会的なことをやっている。その風評と日本ではとっくに無くなったwuの音で彼の名を知った。彼もありふれた家に住んでいる。大川を見下ろす開けた斜面の中程にポツンと建っている。この区画が彼のものかどうか知らないが、もしそうなら、酋長行政に支払う永代賃借料はブルーボートより高いだろうな。

       もう一人の男はこの町の富裕層や支配層が住む大川を見下ろす痩せた尾根の付け根に住んでいる。船主協会の理事長で、波止場の端にある仮小屋の様な事務所に座っている時もある。

       この人たちはやや目立つ家に住む伝統的支配層の世界とは異質だが、何処か同業を通して培った仲間意識があって、この町の繁栄に必要だな、と言う予感を持った。或る夜、展望と気前の良さを持った「三人のボートメン」の夢を見た翌日、波止場に行ったら、車の窓から三人が戯けた顔でのぞき込んだのには、たまげた。

       どうやって金を貯め込んだんだろう?と考えたら、内戦の10年間、道路はそこかしこで現場指揮官の恣意で閉鎖され、人や物は検問・没収に遭い、陸運による物流は大いに制約されたはずだ。となれば頼れるのは川運だけじゃないか。しかも「424」の様に没収の憂き目に遭っていない。とすれば、よほど信頼性のある通信・情報網が無ければ10年はやっていけまい。その根底になるものと言えば人間関係じゃないか。なるほど。

この他、ティムニ人社会の事業家には港の市場を仕切る何でも屋(穀物卸、精米、雑貨、ホテル)とかランボーと言う名のミニバス屋だとか、多士済々である。もちろん女の商売人(マーケット・ママ)にも事欠かない。

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     出港した乗合船

4.             B君 僕の相棒 (写真2枚掲載)

Bも山から下りてきた。事業家ではなく職人として。西欧の伝統下にある此処では大学を出なければ、技術者になれず、肩書きの横滑りはない。だから彼は一生、職人だ。

       20年前、彼の育った町に日本の井戸屋がやってきて、彼はそのチームの下で働き、そのまま、水道局の給与名簿に載り、ロクープル水道に配属された。

地方分権の余波で、水道局に所属する多くの職工は国家公務員として給与を貰いながら地方中小都市に配属替えとなったが、仕事はない。どの町の水道も内戦中に壊された中で、原水とは言え実際に給水を持続させたのはロクープルだけである。彼はその維持に貢献した唯一の現場人間で、十年間に培われた体験は機械工の域を遙かに超えたものとなっている。それに彼の人間性が加味され、地域の住人から水道サービスにとって他に得難い人間と見なされている。

       水道局が維持して来た高架水槽の下、給・配水幹線のバルブに囲まれて建つちっぽけな官舎に家族と住んで20年近く、しかも嫁さんはこの町生まれの女だ。だから、れっきとした此処の住民と言える。彼の息子も此処の学校に通っているようだ。           しかし、彼の娘の一人は彼の出身地にある中学校に通っている。僕らのチームが彼の町の水道の残骸を見に行った際、水道局の彼の同僚が我が技術者を案内している間、彼は手に幾ばくかの金をもって中学校の校長に会いに行った。滞納授業料を払って来たらしく、戻ってくると安堵の表情があった。

また、政府経理の透明化で公務員の給与は銀行小切手で支払われるようになったが、この町にも国際市場にも如何なる銀行の支店も見当たらない。最近、県庁のあるカンビアにピカピカの支店が一ヶ所出来たが、彼はそこに行かず、給与を取りにミニバスで首都に往復している。もう一人の娘が首都に住む彼の弟の家族のところから中学に通っているらしい、と聞いた。(了)

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涸れ水栓のある風景

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涸れ水栓のある風景 籾干し

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