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2007年11月

第12回 カダフィーがやって来た。[大統領選挙余話]

(最終原稿:1011日増補)

              カダフィーがやって来た。数百台の車を列ね、ムアンマル・カダフィがシエラレオーネへやって来た。マリを通ってギニアへ、前日は隣国首都コナクリで5万人の聴衆を前にアフリカ合衆国の展望をアジった。

さすが元軍人である。カーキ色の迷彩服を着用し、リビアから陸路はるばると雨期の悪路をものともせず、濁流の流れる大河を渡り、シエラレオーネ国の現職大統領の生家があるカンビアの町に立ち寄って愛敬を振りまき、僕の働いている町の今ははずれの国際市場を通って首都への道をバチャバチャと水溜まりを広げながら進んだ。

Constructions

道路際の建設現場

SL Encyclopedia 2007 archive

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ミニバス・客の荷物

SL Encyclopedia 2007 archive

さて、今年2月此処にいたときに新聞に記事が載った。

「二人の与党国会議員がメッカ帰りにトリポリに寄ったそうな。何でも大統領選挙の時に与党でモハメドさんの説いた世界を信心する人に力を貸してほしいと言うことだったそうだ。」

彼は内戦の時、隣国のテイラーの肩を持って武器を売ったんじゃなかったのかな?自国の軍需産業育成だから仕方がない、それはそれ、金は金、と議員共は考えたのだろうか。

連日の雨で未舗装の道路には穴が増え、どれも大きくなって来ている。見ただけでは深さは判らない。弾も嫌だが、誰も擦れ違いざま泥もかぶりたくない。625日は、たまたま僕らが首都から現場に動く日だった。僕の住む河港ロクープルへの分岐点まで交通止めとなっていたのが、運良くその規制が首都方向へ動くより早く枝道へ擦り抜けられた。

翌日、稲研の現場差配は、

「タクシー・バイクに3人乗りで分岐まで見に行ったんだ。あそこなら車が撥ねた泥はかぶらないから大勢の見物人だったよ。」

と言った。

              大統領選挙一ヶ月前の712日は選挙運動の解禁日である。雨期の町で調査をしていると、大通りで乗用車、ミニバス、オートバイ、人の行進に出逢うことが多くなった。人は晴れ着、車は泥で汚れている。

17,18日には野党第一党の総裁が遊説途上、ロクープルで集会をやった。地元選出議員はこの党のナンバー3である。内戦後で未だ泊まるところは少ないから、稲研内の宿泊棟は満杯になる。たまたま三つ空いていた僕のところにはスポンサーの金持ち3人が泊まった。内二人は女だ。マーケットママの元締めらしく太って貫禄がある。それぞれ自分の車で、腕っ節の強そうな護衛付きである。

この二日間の行列には踊りがつき、スナック売りも従えて賑やかだった。地元の警察も交通整理に大童だったが、気持ちは楽そうだ。誰も好んで、総裁集団に向けて張り合う行進はない。が、目の届かない院外団になると他党の行列同士が擦れ合う。憂さ晴らしだの、お祭り気分だの、それに暴れるネタには事欠かない。乱闘は彼方此方の町でやっている。此処、稲研の敷地内では、雨上がりの木陰で運動員が農場労働者を誘っている。

選挙日前後1週間、首都外へは禁足、との指示がこの国に住む在留日本人をも管轄する在ガーナ国日本大使館から出た。僕らはこの告示ともすれすれで83日丑の刻前に出国する予定になっていた。728日僕らは首都に向けて動いた。近郊の町の広場に嵐をものともせずカダフィーの看板が毅然と立っている横を走り抜けた。噂では表向きのお土産は言われているほどには持って来なかったそうな。或る国際報道には、米を舟(大きさ記述無し)2隻分、トラクター40台、定員50席のバス、ジープ、軽トラ(台数の記述無し)と出たが、報道規制に引っ掛かって記者は拘束されたそうな。車類は自国産なのかな。先ずは与党の選挙遊説用にでも試用するのかな。

平穏裡に終わった8月11日の大統領選挙は国連監視団の元で開票が進められ、21日午後3時で開票率は97%+、各党の得票率は野党第一党44%+、与党38%+, 野党第二党が14%との連絡が入った。

              9月8日に行われた決選投票の結果は17日に野党第一党党首が54.6%で選出された、と発表された。政治の腐敗で政権交代とはなったが、新政権も市民戦争を招いた腐敗政治で政権交代を余儀なくされた政党である。新党首の見識、器量次第で、少しは変わるだろうと、はかない望みを皆が持っている。

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フリータウン、エコワス通り

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              これで、カダフィーの梃子入れ世界は終わった。もっとも彼にとってシエラレオーネの内政は末梢の問題で、彼の率いる自動車部隊は、東へ象牙海岸からガーナに進み、彼は7月に行われたアクラでのOAUサミットに出席している。彼の頭の中の動きには、しみったれなシエラレオーネ国政の転換とは違って、反欧米主義から汎アフリカ主義への大きな転換がある。

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フリータウン、サニ・アバチャ通り 

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     ついでながら、吹けば飛ぶよな我々の案件について言えば、延期された入札は9月17日に開札され、新公益法人の認可も討議される新国会は10月5日に新大統領の施政演説で始まった。去年6月に始まって何度も停滞しているこの計画もどうやら約一年の遅れで、来年8月末には終わりそうな気配となってきた。(了)UFO

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号外!! ホバー沈む。

何と!! この8月に僕を空港まで運んだホバークラフトが航行中に沈んだそうな!! 第11回に予測したように、乗客は誰も死ななかったし、鱶に尻を突かれもしなかったようだ。

来年2月に行くときはフェリーにも乗れないので、空港からフリータウンには陸路で80kmほど大回りして行かなくてはならなくなった。それなら現場に行くのとどっこい、どっこいだから、そのまま現場に直行したいな。

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8月乗船前に写したホバーの雄姿1。

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8月乗船前に写したホバーの雄姿2。代替無しで酷使されたわけだ。

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廃船になったフェリー

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第11回 第二回出張終わりの日々(後編)/西アフリカ・シエラレオーネ国

そして帰路83日―4日)

二人に港まで送ってもらい、82日午後9時半発のホバーに乗って本当に穏やかな海20分で渡り、翌3045分のロンドン行きに乗った。乗り継ぎは半端な9時間なのでホテルで油を売って東京に84日(土)の午後に着いた。

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フリータウン - ルムレービーチ

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役所が動く8月6日(月)一番でJICAシエラレオーネ事務所から突然1通の連絡・通達便コピーが届いた。見ると、

*シエラレオーネ沖における定期連絡船の転覆事故について*

>82日午後10時頃、嵐によりシエラレオーネ沖で

フリータウンとカンビア等を結ぶ定期連絡船が転覆し

死者行方不明者が200名近く生じている。

>○レスキュー隊が出動したが、助けるすべがない状況。

>○ルンギ-フリータウン間のホバークラフトとフェリーの運行に

影響は生じていない。

>今後、船外機式の連絡船の利用は禁止いたします。

>ルンギ-フリータウン間のフェリーも、

著しく老朽化が進んでおりますので、利用を禁止いたします。

>ホバークラフトが時化等により運休している場合は、

陸路による移動をお願いいたします。

我々のシエラレオーネ/東京間の復路は二度とも一見ニアーミスのような感じとなった。前回は我々が搭乗した日の前日に運転を再開したヘリが2ヵ月後に炎上墜落して全員死亡。

今回はPM9時半発、我々が乗ったホバーは穏やかな海の上を走ったのに、やや遅れて数十キロ西方海上で嵐が起こり、定期船が遭難し、全員死亡。

折角の機会だから、報道について注釈を一つ二つ。

カンビアは僕が働いている県の県庁所在地で、国の西北端を流れる大川沿いにある。我が川港、ロクープルの上流・数十キロに当たり、雨期満潮時に10人程度の乗合舟が往来するに過ぎない。

首都への海上定期船は河口の港から出る。船外エンジンつき小船で近隣川筋から来た客はそこで乗り換える。25年前カンビアに行くには先ず河口右岸にあるカシリで乗換えていた。また、200人はきっとフィリピンやインドネシア島嶼国でよくあるように定員オーバーだったに違いない。

時折、海上交通の遭難はあるようだ。ちなみに僕の相棒ブレは、

「俺は泳げないから、首都に給料を取りに行く時には高くても絶対バスで行く。」

が口癖だ。

フェリーはシエラレオーネ河の河口を渡る。船は痩せても枯れても日本製だ。ただし25年前に既に中古だった。フェリーを禁止して陸路を行けば、180kmの迂回となる。こんなケースは稀だが、海がホバーの飛べないほど時化ていれば、飛行機も飛ぶまい。ホテルでの寝待ちが「待てば、海路の日和あり。」だ。

待てよ。前回はホバーも故ヘリも部品待ちで、我々はフェリーで来たんだよな。

真夜中に着き車の中で眠りこけていたので、気が付いたら車はもう対岸に着いたフェリーから出るとこだった。まあ、それくらい静かに水面を動いたわけだ。

河舟輸送は海上に比べれば、ずっと安全だ。風波が強い時、舟は船着場に避難して来る。25年前の乾期に、僕は西北端の大河から一本、東南側にある大河の感潮域中流に住んでいた。車道は少なかったから調査には舟をよく使った。大河筋は8HPから15HP程度の船外エンジン、支流に入ると手漕ぎが多かった。一度カシリの先まで舟で日帰りの旅をした。最寄りの船着場から全長10mくらいの屋根無し舟に乗った。岸辺のヒルギ林に小さな黒いサルがいた。乗り合いだから右岸や左岸のあちこちに寄って客を拾う。いなければ少時待つ。手を上げる客もいる。12月はミカンの季節、何処の船着場でも季節商品としてコラの実やタバコと並べて売っていた。農民は稲の収穫中で客は少なく、いたらミカン、バナナ、サツマイモ、その茎・葉、カボチャの種、ニワトリなど農作物を商う女くらい。さて、ようやく、河口にある乗換え港トゥンブに近づいたと思ったら、目の前をカシリ行きが出て行く。待ちである。ここには小さな桟橋があり、市場、石油タンク、精米所がある。そして船大工が舟を作っている。

乗換えた舟は少し大型で20人くらい乗れる。屋根が付いている。乾期で潮が引いているので桟橋は役立たず。客は一人ひとり背負ってもらって乗換える。時にはカニの群れが甲羅を干す砂洲の間の水道を右に左に1時間半、カシリに着いた。首都への定期船、更に大型の木造船が船がかりしていた。給水タンクも見える。ドイツの援助だそうだ。港にはラジオの修理屋がある。よしずを張り出したディスコがある。マラタ人(インド・ムンバイ周辺の人)がやっている。干魚が積まれ、舟は上流対岸にあるマンボロに舳先を向けた。政府の精米所があるこの港では上げ潮を待つ砂利舟が目立った。その行き先はロクープルである。

25年たった今、そのロクープルで僕は砂利置き場を見ている。船着場は我々の取水口がある支流の大河近くで、二種類の砂利はそこからトラックで内陸部へ運ばれている。引き潮時は、いつも船大工がトンカチ、トンカチと舟を修理している。水道の拡張工事では共同水栓が其処に作られることになっている。

とまれ、ほどほどにやっていれば、無事に済む場合が多い。過ぎたるは猶及ばざるが如し、とは言っても経済行為は過度に近づくことを要求しているから、人生はスリルに満ちている。それは乗り物に一番端的に現れている。僕らが乗っている地球の色んな局面が過度になって来ているところも、乗っていること自身宿命だから、宿命の要素が掛け合わされる。だから下手をすれば話は止め処なくなるばかりだ。これも過度である。やれやれ。(了)

         フリータウン港:SL Encyclopedia 2007 archive

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第10回 第二回出張終わりの日々(前編)/西アフリカ・シエラレオーネ国

現場店じまいの二日 [7月28()29()]

明け方雨になった。朝飯を喰って、皆にさよならし、事務所へ車で行き、外せる機械類は皆、車に積んだ。

Photo

稲作研構内―工事事務所への道

締めに来ていた水道局総技師長のヴァンが動き、我々3人が乗った車も動いた。B君に今後、留守中の指示を出している副技師長のは未だだ。彼には「424」を運んでくれるように頼んでおいた。

近道なので掛け小屋が並ぶ国際市場の中を通る。辺りは薄暗い。店を開ける時間なので、皆出たり入ったりしている。軒先にぶら下げられた空色の運動靴数足が少し濁った海を泳ぐブダイのように、けったいな鮮やかさで揺れていた。表の電気屋で先日買った中古の蛍光灯二本のうち点かなかった一本を返した。

この地域の表土はラテライト、泥々にならないから上下動は少なく、水の溜まった大小の穴ぼこを避けて左右に振り回されるだけだ。2時間近くたってポートロコを過ぎたところで道端にタンクロリーが横転している傍を通る。ルンギ空港へ首都の港から航空燃料を運んでいる途上だ。

人・物・車は約8kmの河口を渡しで、後15km弱を道路で行く。金がある人はヘリに乗る。ヘリが落ちてからはホーバーに乗る。

どれくらい迂回するかって。200km足らずかな。ただ、これで燃料は人・車混載の船には積めないんだな、と分った。

舗装路になると横揺れが無くなり、ほっとする。首都に近づくにつれ雨脚はますます繁く、山側に厚い雲の壁が立ちはだかるようになる。海抜約700mまで持ち上っている貫入花崗岩・斑レイ岩の山塊は長さ20km弱の海岸線を形作り、雨季に5000mmの雨を呼び込む。我が現場ロクープルの倍近くで、日本なら大台ケ原である。しかし半年でだから強度は倍だ。滝の中を走るようなものである。車軸を下す雨はワイパーでは追いつかない。

道は川になる。砂漠の水路を渡るコーズウェーとか日本なら四万十の水没橋とか、不時の出水は構造物の上を流れ下る設計になっている。此処では毎日だから、高床で、しっかりした足回りの車で無いと動き難いが、走っているのは古ぼけたセダンが多い。しょっちゅうエンコして邪魔だけれど、その運行振りは健気なものである。

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フリータウンへ入港するローロー船 (Bホテルからの眺め) 

Bホテルに入り遠くの波浪を眺め、植木の葉を過ぎる風の音を聞きながら遅昼を喰った。夜になっても嵐は続く。泊まった夜は一匹殺すとやがて次が現われる按配の悪さで、止め処(ド)がなかった。部屋には蚊が凝縮していたな、と分かっても後の祭り。

              朝も大嵐の中で飯を喰った。メイドに、夕べは10匹殺した、と言ったら、

              「あらそう、スプレーしとくわ!」              とおおらかな返事。自分の家じゃ蚊と共存しているのだから、客の寝不足は分からない。ここの従業員はお客には根っから親切だが、切実度が分からなければ仕事の順番は付けようが無い。*1

*1 次の晩は2匹、次の次はダニ系も出てきた。それでチップを減らした。第4夜は一匹も出なかったが、ダニは出た。最終夜はどうやったか知らないが、蚊もダニも出ず、本当に良く眠れた。

              熱帯だが、海は寒流だ。嵐の日は寄せる波濤の白さが寒々しい。3,4日続きの嵐では客はいない。昼前、ようやく風が収まり雨も止んだ。

              食堂に行くと、

              「あんたは福の神だ。雨が止んだ!」           と皆、にこにこ顔だ。

              「テラスで飯を喰ってくれ。」

              テーブルや椅子を傾けて水を切ってくれる。テーブルクロスなど衣類を持ったメイドが後ろを洗濯場へ往き来する。ウェーターがやって来て、

              「着替えが底を突いてしまった。これを見てくれ。」    とチョッキを引っ張り、濡れた靴で足踏みした。

              小さなプールの横で飲み喰いしはじめたら、風がぱたりと止み、日が射した。パラソルが運ばれて開かれる。頭上に穴が空いて絹層雲が棚引く青空が覗いた。なんと!目ではないか。メソなのか、もっと大きな規模なのか。周りの積乱雲はひ弱い。東側の雲が青空と織り成して薄く南へ続いている。今晩くらいまでは小雨交じりで晴れも続くだろう。

となれば、俺の晴れ男の看板もそう剥げはしまい。しかし、無風の時は短く、風の音が立ち上がり、パラソルが丸テーブルに載ったコーヒー茶碗を揺り動かし始めた。

この岬を目指してコンテナー船がやって来て右に折れた。切り立った船尾が見えてローロー船だと分かった。国旗をなびかせた小さな船外エンジン木造船を見下ろしながらすれ違う。首の白いカラスが一羽東に向けて飛ぶ努力を続けている。下を見ると助手を引き連れた修理のおじさんが給水タンクをトンカチやり始めた。雨が止むとかくのごとく、ものみな動き始める。

夕方のテーブルにはナフキンが出た。開けられた食堂の窓から微風が流れ込み、日没前の日の直射と海からの反射が同時に差し込む穏やかな世界となった。                        

首都での日々 [730日(月)-82日(木)]   

僕の仕事は一年後にチェックに来るまでの現場の流れを考えることだ。土木屋さんは9月に行われる予定の入札準備だ。

我々が仕事の出来るところは今や水道局にも出来たが、宿から近いJICAで働いた。午前8時半に行き、午後5時まで仕事、最終日は午後6時まで働いた。雨は降ったり止んだりしている。まあ、毎日代わり映えしない。

だから後は飯の話だ。僕は前の晩にホテルでピザを焼いてもらったり、サンドウィッチを作ってもらったりして事務所で弁当を食った。昼雨の要素を考えないので気が楽だ。

普通なら晩飯はホテルなのだが、団長が3人で飯屋に行こうと言い、二人のJICA事務局職員とも別れの会食となって、4晩とも外になった。どちらのホテルも洋か無理してもマグレブなので、変わったものとなれば、結局シナ飯2晩、コリアン2晩となった。一晩目は北京飯店、3人で鍋を囲んだ。午後6時前は未だ店開き前なので、店員がマージャンをしている横で始めた。肉は羊が無く、牛、これにエビ、豆腐、春雨。垂れはピーナッツ・ソースに合わせ醤油、良かったのは刻んだ香菜があったことだ。一ヶ月川魚、鶏とピーナッツ・ソースのパーム油炒めに昼は現地産米(乾期はタイ・南シナからの砕け古米だったから、今回は新米で旨かった。)、夜はパスタかクスクス、時には揚げプランテン(バナナ)の献立だったので、目先が変わって楽しめた。

二晩目はコリアン。食堂は大通りを入った屋敷街にあり、二階は宿屋になっている。此処は井戸掘り屋さんもやっていて庭にボーリング機械が置いてある。

              プルコギ、チジミ、エビ焼きスパゲテイ(そばの代用)、海鮮スープ、どれも本当に旨かった。お上さんが福相でオモニ料理の雰囲気だ。地元の女の子のウェイトレスの笑顔も良かった。おかげで杖を忘れ、車に乗ってから気が付いた。

              もう一人の団員が去年だか嫁さんとソウルに数泊の旅行に行ったと言ったので、団長が、帰りの車で、

「朝鮮語で、ありがとう、ってどう言うんですか?」

「何とかハムニダ、むにゃむにゃ・・」      

脳力、朝の半分の夕方では、全く思い出す引っかかりが無かったが、二人の間でハングルに関する会話が進んだので、出しゃばって講釈する羽目になり、

「漢字を知っているとうまく当てはめられる場合があるよ。」

その途端に、「安寧」が、次いで「感謝」が浮かんで来た。

それで、「有難うは、カムサハムニダ。」だ、と言えた。安寧の繋がりはホテルの部屋に入って「アンニョハシムニカ」と出て来て目出度し、だった。

朝、杖を取りに寄ったら、車が来るのを見ていた店の人がわざわざ門まで持って来てくれた。頭を絞ると「カムサハムニダ」が出て来て間に合った。そしてその晩も職員一人を入れた4人でほぼ同じものを喰う流れとなった。記憶の引出しは面白い。もっとも僕のハングルのストックはこの二つの挨拶語だけだ。

最終日は午後7時から所長の行きつけの上海飯店で5人、肉マントウに始まるアラカルトで締めた。(前編終わり)

UFO       

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第9回 僕の2007年 (後編)

 2. 手術のあとさき (後編)

手術にまつわる話は2005年に起こった現象から始まった。

年寄りには足先が冷たくなっている人が多い。僕の場合はこれまで色々運動による対抗策を考えても効果は全く無かった。なにせ毛細管は詰まってるので衰えたポンプでは吸い上げられないのだ。

ところが2005年の春から時折、熱の塊が一つ二つ左脚を下ってくる感覚が起こった。夏を過ぎた頃、ある日気がつくと足先が冷たくない。その冬は左右とも靴下無しで、ほのかに暖かく感ずるまでになった。僕の努力結果ではないことは明らかだが、ダラ幹がやる程度の運動は続けた。

2006年春のある日、左ひざの関節が心もとなくなる一瞬があった。痛みはまったくない。60年前の外傷の結果、ふくらはぎは僅かに麻痺しっぱなしなのだが、これまで農作業、登山、ラグビーと言った程度の労働/運動には耐えてきたのに、今度の不具合は気がつくたびに進行していた。

それでも僕は馬鹿の一つ覚えで筋トレに励んだが、左脚全体が麻痺してしまって夏の終わりには他の方法、つまり治療法を探さねばならなくなった。

そこで先ず老人ホームの雇われ管理医をしている45年来の友、80歳の医師を訪ねた。僕が彼に自分の身体のことを尋ねたのははじめてなので彼は「おっ。」と言った。

「先ずレントゲン、MRICTを撮って原因究明だな。」          と言われた。もっともである。

彼は最近職場でリハビリ指導中によろけた患者にもたれかかられてひっくり返ったのがきっかけで2度目の脳梗塞になり、復帰したところだった。大昔、僕と知り合った頃、彼は先輩医師がところもあろうにインド・アグラで始めた患者の少ないハンセン氏病専門病院の尻拭いでデリーに居た。治療よりは経営の維持に日夜苦労していた。その後、件の先輩医師は勲章を抱いて航空機事故で死んだ。

              しばらく米軍軍政下の沖縄で公衆衛生指導のため島々を巡回したあと、彼は幾つかの老人病院の雇われ院長をやった。治療後リハビリをやって出来るだけ早く病人を自宅に戻す方針の彼が院長の病院はいつも満杯の盛況だったが、同時に自分が理想とする老人診療所を作る機会を探し続けた。日本で老人化が一番早く進んだ淡路島の内陸みどり町で町の行政との話し合いが進み売れ残った工業団地跡の一区画を借り診療所を立ち上げる話まで行ったが、土壇場で地元医師会に専門病院は時機尚早とけちを付けられておじゃん。

              ついに三重県熊野市の過疎地で医師不在の診療所を二つ見つけ、自分が経営者となってリハビリ機材や車等を持ち込み、月曜午後から土曜午前までの診療時間で運営をはじめた。しかし、かつての林業の村は過疎化を通り越して老年人口そのものが減り、自身も寄る年波、ついに13年間やった診療所を閉じ、他人経営の医療法人で現職についている。

              なすべきことは分かったので、次は東京から南東へ、大海の手前、大河の向こうにK診療所を訪ねた。かれこれ35年振りである。僕が南インドでのちっぽけな社会実験をスポンサーの情勢変化で中断を余儀なくされ帰って来た時、次の飯種を探す前に此処で何週間か掛けて痛んだ身体を直してもらって以来だから。      

診療所から自宅へ通ずる廊下を歩いて扉を開けると其処に笑った顔があって、俺と同じように杖を突いている男が立っていた。顔を見合わせた一瞬あっけにとられて、声が出ない。

「なんして、来んかったのよう!」

「病気してないのに、来れるかよ。俺がうろうろしてたら邪魔っ気じゃろが。」

10年前、続けさまに脳梗塞にやられてよ、2度目のは小脳だったから、この様(ザマ)よ。」     「幸い、頭と口が動くので、診察は出来る。」

経緯を聞いて、彼は

「ちょうど良かった。明日、週一で整形の医師が来るから診てもらいなさいよ。」

飯を喰いに出て積もる話を聞き、泊めてもらい、翌日一番でN医師に丁寧に診てもらった。

「後で、整形の専門病院宛、紹介状を書いておきます。」

それで、次にすることは決まった。

1960年後半、M君等、東京大学医学部第二外科の大学院生が自主管理による診察を始めて、いわゆる教育体制と対峙し、その後、国内に広がった学生紛争のきっかけを作った。彼は当時、病院の裏手で犬の心臓を切ったり繋いだりしていたのを止めて医療行為に邁進した。しかし直ぐ日本の社会の根っこにぶつかり、紛争の不毛性に気づき、退学して町医者になる決心をした。丁度K湾掘削工事が始まったところで、現場に外科病棟を建てた。僕は南インドの計画を進めながら、一族郎党で少しそれを応援した。

             

              混むと聞いたので、1211日はK病院に6時着で行き、10時頃、外来のO担当医師から丁寧な問診・触診・機能テストを受けた。O医師は首から腰までのX線とCT写真を見ている。

              「うーん。これは治ってもな。むにゃ、むにゃ。」と独り言が聞こえた。

「内のMRIは混んで待たなくちゃならんから、他所で二枚撮って来てください。」

と撮影部位と住所を書いた紙切れをくれた。

写真を持って13日に行くと、O医師は机前の磨りガラスの照明板に貼り付けた3種類のネガ写真を見せながら、紙切れにゴム判で幾つも漢字の連なった病名を押して、これだ、と言った。そして、       「手術以外、あれこれやっても無駄です。」

ときっぱりした口調で言った。 見たら、其処には「頸椎後縦靱帯骨化症」とあった。これは難しい。漢字の羅列のことである。ところが治療も難しいと、直ぐ後で教えられた。僕が前回のつぶやきと今回のご託宣の差に戸惑っていたら、

「まず入院予約をして来てください。」

待ちが3ヶ月、の答えを持って帰ると、沢山の申請用紙の必要なところに所見や署名をしながら、「難病だから、これを保険所に直ぐに提出しなさい。」

「待ちの間、外地へ45日間の出張に行きたいんですが。」

「あなたのは進みが遅いようだから、いいでしょう。」

出張中に役立つものを探すつもりで売店に寄ると、書棚の前に積み上げられた文庫本があった。[岩城宏之著、「九段坂から。-棒ふりはかなりキケンな商売―」朝日文庫 2003, pp312]

パラパラッとめくると、氏が50歳代の198711月にこの病院で僕と同名の病を治療するために首の手術をした記録が中心である。で、買った。そして数日かけて20年前の状況を学んだ。そしてこの系統の病気がオーケストラ指揮者の職業病であること、リハビリの重要性の他、術前・術後に役立つ対処の仕方を幾つか学んだ。

1月、出発2日前にO医師に病状の進行度を見てもらい、入院係りに確定した帰国日を告げ、旅行用に岩城氏推薦の上履きゴム靴を買った。

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僕が手術をしてもらった病院

最初の乗換え場所アムステルダムは17日夜から18日昼にかけて死者が出るくらいの大嵐で、二人旅の同行者M団長の親切心に和らげられたとは言え、左脚木偶の坊での移動は、うまい具合に、大変強烈な訓練となった。だからその後の経験はたかが知れたものだったが、麻痺は少しずつ進行し、日本に着いた時には右足先と両手にも広がっていた。

37日に東京に着いたら、入院の用意が出来ている、と病院からの当日付け留守電があった。翌日、日が決まり、13日に(既に本で)勝手知った5階の、看護室、トイレに一番近い4人部屋506 号室に入った。

隣のベットには病棟の主の貫禄があるU氏がいた。山賊の首領の感じだが、根は非常に親切な人であることは直ぐ分かった。彼は僕と同い年くらいで昔、岩城氏の直ぐ後に此処で同様の頚椎手術を受け、今は腰椎手術後の回復期を過ごしている。病気そのものは言うに及ばず、病院、医師の歴史・変遷についてこの生き字引から多くのことを学べた。そして20年の技術革新で手術法もずいぶん手軽になった、と聞いて、気が楽になった。

手術前夜、O執刀医師は写真を指差しながら、手術を後ろからやる理由(岩城氏、U氏は前から)と、術後の回復期待度50%と言った。ああ、これがつぶやきの意味だと覚った。

              手術は朝一番で予定通り1時間半で終わった。術後の経過は順調すぎて、食事で失敗を犯し(海外出張による疲労度を軽視)、院内感染で軽い風邪に罹る不手際が重なって、手術傷の直りが身体の回復を上回り、その分リハビリの進度が遅れ、花見は窓越しでした。

        術後数日目の夕方、寝ぼけた頭で目を開くとどうも様子が違う。目の前に壁があった。そうなると立っているはずだがそんな感じは全く無い。よく見ると壁は天井だった。重力直角だ。僕は岩城の記述を思い出したが、だからと言って、どうにもならない。やれやれとしばらくの間ごそごそしていたら治った。幻覚はそれきりだった。故岩城氏の場合5日続いた。手術を取り巻く環境がダンチだったんだから当然だ。

リハビリのW術師は親切無比、指導は的確で歩き方の基本から教わった。

5階廊下で補助道具に頼って歩行訓練をしていると、隣のインド大使館の庭が見えるところがあった。1960年にそこで国費留学生の試験を受けた時と何も変わってない景観を全く思いがけない視点から見たので、その時の印象を極めて細かく思い浮かべることが出来た。

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僕の退院後、建替えの始まったインド大使館

仮免で毎日、毛並みの良い猫と住む身なりの整ったホームレス氏のベンチ傍を通って、花見時期が終わった千鳥が淵、靖国神社、北の丸公園をしこしこと歩き、五月の連休明けに退院した。

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          千鳥ヶ淵に住むネコ

 

リハビリを兼ねた6月下旬にはじまる1ヵ月半の海外出張は許された。しかし行き先は雨期に入っていたので思ったほど訓練は出来なかったが、25年振りの「424」とは毎日会って話す期間があって心が和んだ。

    役務契約が締ばれてから実際に出発するまで7ヶ月経っていたので、1月第一回目の出発前の会合には左脚が撚れた姿で出席した。施主、委託者側は不具の老人を見て、さりげなく眉を顰めていたが、第二回目出発前の会合では何気ない安堵感が漂っていた。

こうして僕は1年足らずの間に25年から60年前の自分の軌跡上の8点(身体上2点、国の内外で会った人5点、場所1点)にゆくりなく舞い戻った訳である。

第二回現地作業が終わった今、僕は第三回目出張の準備作業をしている。予定は工事完了後の来年45月ごろだ。雨期が始まって誰も天然の水で用が足りる時だ。水道代を払う気持ちは減退する。一方、811日の大統領選挙が決選投票に縺れ込み9月に再選挙となったので行政は遅滞し入札事務も少し遅れたが施工業者は決まった。

いまのところ、僕の首はうまく回っているし、足の踏み込みも順調に強くなってきているが、骨化症状の進化を止めるものではない。足先は前ほどではないがほどほどに冷たくなって来ているし、四肢の先端には少し痺れが戻ってきている。だけど、歩けると言うことは大変幸せなことだ。

まあ、あれやこれやあって、時は経って行く。すべて、世はこともなし、に見えるところへあれやこれやが入って、来年のことを言うと鬼が笑うことになる。(註:9月記)

(了)

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第8回 僕の2007年 (前編)

 シエラレオーネでの2回の現場作業と頚椎の手術とは僕の2007年での二つの大きな出来事で、時系列で不可分に絡み合っている。

1.僕の現場/西アフリカ・シエラレオーネ国 

位置・行政:

今回の現場はシエラレオーネ国カンビア県ロクープルにある。この町は国の西北方を流れるグレート・スケアシー河の河口から約20km上流左岸にある河港で、首都フリータウンから、同市とギニア国コナクリ市を結ぶ国際道路沿いに、約160km離れた地点だ。行政区分ではカンビア県だが、ロクープル住民の問題に関してはマグベマ酋長領の行政・司法組織が機能している。

経緯:

60年ほど前、西アフリカ稲作開発共同体がこの町の中心にある丘陵地40haとその下方、波止場の一本上手にある支流とを稲作研究所敷地にしたとき、所内施設・研究者住居等のために上水設備を作った。水源は波止場から一本下の谷にあり、そこから表流水をポンプで距離1km強、落差30mほど押し上げて所内にある容量150m3の高架水槽に入れ配水した。その際、水源と研究所の周囲に住む人々に公共水栓を幾つか作って浄水のお裾分けをした。

現存する公共給水施設は約20年前に日本政府がシエラレオーネ政府からの要請に応じた無償援助で、浄・揚水施設と研究所周囲の町並中心に配管網を拡張したもので、ビニール管の幹線は波止場から先酋長の名を取ったバイ・ファルマ・タス3世大通りに沿って2.5kmで、他に3支線合計延長約1kmがある。(ロクープル稲作研究所内の配管網は除く。)

              現況:

無償供与による今回の工事は10年の内戦で痛められた上水施設と公共水栓の復旧である。稲研内の配管は今のところ旧来のアスベスト・パイプのままだそうだ。

取水地は上水を利用する地域社会の一つの入会地にある。取水域は約10k㎡で源流は4-5km上流にある。取水地の直ぐ上流部は地元民が自主的に利用を抑制・保護しているが、二つの源頭のうち一つは現在膨張中の国際市場の直下から発している。

              波止場に隣接して河港市場があり、波止場通りに商店街がある。大通りには中古のミニバス、トラック、バン、木造ボートを使った運輸サービス関連の零細企業が幾つかある。此処ではタクシー車はなくバイクである。農業を含めた他セクター関連の企業は更に小さな規模になる。(所内に大型農機用の修理工場があるロクープル稲作研究所を除く。)

              波止場を見下ろす丘の端に新しく建てられたマグベマ酋長領裁判所があり、大通りの中央モスク地区とミリンダ地区の間にはこれも新築の警察署と機能停止中の郵便局がある。拡張後の給水地域には小学校が4校(生徒数計約2,100人)、中学校が1校(生徒数計約1,000人)、職業訓練所が2ヶ所(生徒数計約150人)、診療所が3箇所ある。殆どの地区にはモスクがあり、カトリック教会はリンバ・コーナー地区にある。だから、時折、道路に飛び出す豚を見る。

内戦があったとは言え、20年の間に人は流れ込み、ぽこ・ぽこと生まれてもいる。復旧だけでは住んでいる人々が納得しにくい。それで水量と水圧が許す範囲で公共水栓の配管網を拡張する計画を提案し、国際機関、二国間協定、民間協力団体からの資金協力の可能性を当たってもらった。今のところ駐ガーナ日本大使による草の根無償資金供与の可能性が高い。

拡張区域を含めて35の共同水栓が11,000人、1,300家族の水需要を賄うことになる。(ロクープル稲作研究所を除く。) 拡張予定区域内の配水網は総延長が約2.8kmになる。

これまで原水の供給はロクープル稲作研究所が月2回高架水槽を満タンにし、また専用水栓を持つ消費者群も需要に応じて必要な運転・維持費用を負担してきた。もちろん給水の際には近隣の共同水栓利用者が余剰水に預かることになる。

維持管理要員としてエネルギー電力省水道局は機械工・配管工一人ずつを内戦中の混乱期を通してこの町に張り付けて来た。

              特に、機械工は研究所内を含めた給水とともに全施設の老化の手当をしながら、消費者の意見の聞き役をやって来た。この男が町屋の人々から絶大な信頼を受けているのは宜なるかな、である。

さて、僕の仕事の目標は、復旧・拡張された給水施設を利用住民が自主的に維持管理して行く仕組みを皆に考えてもらい、実現していくことである。

1月中旬から50日の国外出張期間中、一本足で給水復旧・予定両区域を歩き地名の確認と大よその世帯数、市場、工場、学校の数と生徒数、診療施設、宗教施設を数え上げると共に、地元の社会調査屋さんを雇って総数の10%弱に当たる100軒の水利用、衛生状況に関する訪問調査をした。これで町の上面(ウワツラ)は僅かながら掴めた。主要4部族の住み分け具合、9割が農業と言われている実態、他の職業などがおぼろげに分かって来た。また公共水栓利用者の他に敷地内に単独水栓を持っている世帯もあって、訪ねていくと約40軒になった。

620日から45日間の第2回国外出張は調査ではなく、具体的な実施手段の提案に基づく活動準備であった。実施主体の法人格を現行法内で作る提案に対しては利用者団体責任者達を理事におく県認可の公益法人設立の方向で素案が出来、8月11日大統領選挙が終わって9月の新議会で立法化の予定だった。しかし二党決戦となったので、一ヶ月は遅れることになるだろう。一方、35箇所の公共水栓の利用者台帳の原簿も完了している。(これ等の実務はエネルギー電力省水道局がやった。)

来年は復旧・拡張工事の完成前と後に、水道公益法人の活動を組織・財務両面から見に出かけることになっている。(9月上旬に書く。)

2.       手術のあとさき (前編)

乾期に行った第一回の旅と手術後の雨期に入っての第二回の旅とでは気分が大いに違った。左脚全体から右足へ麻痺が進行している状態での横着なりにかなり一所懸命準備せざるを得なかった第一回の調査行に比べ、術後でリハビリ中途とは言え、第二回の仕事行は、よろけ爺さん並みの歩みが戻ってきた幸せな気持ちで一杯の活動だった。

例えば、前回は取水口のある堤防の切れ目に積み上げた石の上を歩いて左岸へは行けなかった。だから支流の奥を見られなかった。今回はその屈曲点まで歩き、水田の拡がる浅い谷を確認できて、本当に良かったな、と思えた。

また小さな湾岸にたつ首都での宿の一つおいた奥にレストランがあるが、海沿いの道は無く、丘をぐるりと回って行くことになる。前は坂道を登れなかったから断念せざるを得なかった。今回は杖を平衡棒にゆっくりと歩いて土日に出かけた。土はオールブラックス対南アのラグビーをやっていてホールは観客で賑わっていた。日曜にも出かけて、どうだったと聞いたら最後の一瞬に5点差で逆転されたとオーナーは口惜しがっていた。それで彼が南ア人だとわかった。此処の飯はホテルよりうまく、サービスもましだった。歩けると何かと人の世が見られるので楽しい。

すべてこれ手術のおかげである。そこで「頚椎後縦靱帯骨化症」を手術である程度無力化する話となるのだが、そうなるともう一つ、僕の個人史の一現象になる話を序に乗せて置きたくなる。2005年に起こったこの現象が翌年の麻痺進行とどんな関連にあったのか、今は不明だ。

また、二度のSierra Leone 出張と、その間に挟まった手術とは、ともに僕の人生をいろいろ振り返るきっかけになったので、今の僕にとって意義深いものがある。

病名確定日:

Dec.13, 2006

              入院予約:Dec.13, ’06

              Sierra Leone 出張(第一回): Jan.17,’07-Mar.7,’07 

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              入院日:Mar. 13, ’07

手術日:

Mar.22, 2007

              退院日:May 07, ’07

              Sierra Leone 出張(第二回): Jun.20,’07-Aug.04,’07   

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