2. 手術のあとさき (後編)
手術にまつわる話は2005年に起こった現象から始まった。
年寄りには足先が冷たくなっている人が多い。僕の場合はこれまで色々運動による対抗策を考えても効果は全く無かった。なにせ毛細管は詰まってるので衰えたポンプでは吸い上げられないのだ。
ところが2005年の春から時折、熱の塊が一つ二つ左脚を下ってくる感覚が起こった。夏を過ぎた頃、ある日気がつくと足先が冷たくない。その冬は左右とも靴下無しで、ほのかに暖かく感ずるまでになった。僕の努力結果ではないことは明らかだが、ダラ幹がやる程度の運動は続けた。
2006年春のある日、左ひざの関節が心もとなくなる一瞬があった。痛みはまったくない。60年前の外傷の結果、ふくらはぎは僅かに麻痺しっぱなしなのだが、これまで農作業、登山、ラグビーと言った程度の労働/運動には耐えてきたのに、今度の不具合は気がつくたびに進行していた。
それでも僕は馬鹿の一つ覚えで筋トレに励んだが、左脚全体が麻痺してしまって夏の終わりには他の方法、つまり治療法を探さねばならなくなった。
そこで先ず老人ホームの雇われ管理医をしている45年来の友、80歳の医師を訪ねた。僕が彼に自分の身体のことを尋ねたのははじめてなので彼は「おっ。」と言った。
「先ずレントゲン、MRI、CTを撮って原因究明だな。」 と言われた。もっともである。
彼は最近職場でリハビリ指導中によろけた患者にもたれかかられてひっくり返ったのがきっかけで2度目の脳梗塞になり、復帰したところだった。大昔、僕と知り合った頃、彼は先輩医師がところもあろうにインド・アグラで始めた患者の少ないハンセン氏病専門病院の尻拭いでデリーに居た。治療よりは経営の維持に日夜苦労していた。その後、件の先輩医師は勲章を抱いて航空機事故で死んだ。
しばらく米軍軍政下の沖縄で公衆衛生指導のため島々を巡回したあと、彼は幾つかの老人病院の雇われ院長をやった。治療後リハビリをやって出来るだけ早く病人を自宅に戻す方針の彼が院長の病院はいつも満杯の盛況だったが、同時に自分が理想とする老人診療所を作る機会を探し続けた。日本で老人化が一番早く進んだ淡路島の内陸みどり町で町の行政との話し合いが進み売れ残った工業団地跡の一区画を借り診療所を立ち上げる話まで行ったが、土壇場で地元医師会に専門病院は時機尚早とけちを付けられておじゃん。
ついに三重県熊野市の過疎地で医師不在の診療所を二つ見つけ、自分が経営者となってリハビリ機材や車等を持ち込み、月曜午後から土曜午前までの診療時間で運営をはじめた。しかし、かつての林業の村は過疎化を通り越して老年人口そのものが減り、自身も寄る年波、ついに13年間やった診療所を閉じ、他人経営の医療法人で現職についている。
なすべきことは分かったので、次は東京から南東へ、大海の手前、大河の向こうにK診療所を訪ねた。かれこれ35年振りである。僕が南インドでのちっぽけな社会実験をスポンサーの情勢変化で中断を余儀なくされ帰って来た時、次の飯種を探す前に此処で何週間か掛けて痛んだ身体を直してもらって以来だから。
診療所から自宅へ通ずる廊下を歩いて扉を開けると其処に笑った顔があって、俺と同じように杖を突いている男が立っていた。顔を見合わせた一瞬あっけにとられて、声が出ない。
「なんして、来んかったのよう!」
「病気してないのに、来れるかよ。俺がうろうろしてたら邪魔っ気じゃろが。」
「10年前、続けさまに脳梗塞にやられてよ、2度目のは小脳だったから、この様(ザマ)よ。」 「幸い、頭と口が動くので、診察は出来る。」
経緯を聞いて、彼は
「ちょうど良かった。明日、週一で整形の医師が来るから診てもらいなさいよ。」
飯を喰いに出て積もる話を聞き、泊めてもらい、翌日一番でN医師に丁寧に診てもらった。
「後で、整形の専門病院宛、紹介状を書いておきます。」
それで、次にすることは決まった。
1960年後半、M君等、東京大学医学部第二外科の大学院生が自主管理による診察を始めて、いわゆる教育体制と対峙し、その後、国内に広がった学生紛争のきっかけを作った。彼は当時、病院の裏手で犬の心臓を切ったり繋いだりしていたのを止めて医療行為に邁進した。しかし直ぐ日本の社会の根っこにぶつかり、紛争の不毛性に気づき、退学して町医者になる決心をした。丁度K湾掘削工事が始まったところで、現場に外科病棟を建てた。僕は南インドの計画を進めながら、一族郎党で少しそれを応援した。
混むと聞いたので、12月11日はK病院に6時着で行き、10時頃、外来のO担当医師から丁寧な問診・触診・機能テストを受けた。O医師は首から腰までのX線とCT写真を見ている。
「うーん。これは治ってもな。むにゃ、むにゃ。」と独り言が聞こえた。
「内のMRIは混んで待たなくちゃならんから、他所で二枚撮って来てください。」
と撮影部位と住所を書いた紙切れをくれた。
写真を持って13日に行くと、O医師は机前の磨りガラスの照明板に貼り付けた3種類のネガ写真を見せながら、紙切れにゴム判で幾つも漢字の連なった病名を押して、これだ、と言った。そして、 「手術以外、あれこれやっても無駄です。」
ときっぱりした口調で言った。 見たら、其処には「頸椎後縦靱帯骨化症」とあった。これは難しい。漢字の羅列のことである。ところが治療も難しいと、直ぐ後で教えられた。僕が前回のつぶやきと今回のご託宣の差に戸惑っていたら、
「まず入院予約をして来てください。」
待ちが3ヶ月、の答えを持って帰ると、沢山の申請用紙の必要なところに所見や署名をしながら、「難病だから、これを保険所に直ぐに提出しなさい。」
「待ちの間、外地へ45日間の出張に行きたいんですが。」
「あなたのは進みが遅いようだから、いいでしょう。」
出張中に役立つものを探すつもりで売店に寄ると、書棚の前に積み上げられた文庫本があった。[岩城宏之著、「九段坂から。-棒ふりはかなりキケンな商売―」朝日文庫 2003, pp312]
パラパラッとめくると、氏が50歳代の1987年11月にこの病院で僕と同名の病を治療するために首の手術をした記録が中心である。で、買った。そして数日かけて20年前の状況を学んだ。そしてこの系統の病気がオーケストラ指揮者の職業病であること、リハビリの重要性の他、術前・術後に役立つ対処の仕方を幾つか学んだ。
1月、出発2日前にO医師に病状の進行度を見てもらい、入院係りに確定した帰国日を告げ、旅行用に岩城氏推薦の上履きゴム靴を買った。
僕が手術をしてもらった病院
最初の乗換え場所アムステルダムは17日夜から18日昼にかけて死者が出るくらいの大嵐で、二人旅の同行者M団長の親切心に和らげられたとは言え、左脚木偶の坊での移動は、うまい具合に、大変強烈な訓練となった。だからその後の経験はたかが知れたものだったが、麻痺は少しずつ進行し、日本に着いた時には右足先と両手にも広がっていた。
3月7日に東京に着いたら、入院の用意が出来ている、と病院からの当日付け留守電があった。翌日、日が決まり、13日に(既に本で)勝手知った5階の、看護室、トイレに一番近い4人部屋506 号室に入った。
隣のベットには病棟の主の貫禄があるU氏がいた。山賊の首領の感じだが、根は非常に親切な人であることは直ぐ分かった。彼は僕と同い年くらいで昔、岩城氏の直ぐ後に此処で同様の頚椎手術を受け、今は腰椎手術後の回復期を過ごしている。病気そのものは言うに及ばず、病院、医師の歴史・変遷についてこの生き字引から多くのことを学べた。そして20年の技術革新で手術法もずいぶん手軽になった、と聞いて、気が楽になった。
手術前夜、O執刀医師は写真を指差しながら、手術を後ろからやる理由(岩城氏、U氏は前から)と、術後の回復期待度50%と言った。ああ、これがつぶやきの意味だと覚った。
手術は朝一番で予定通り1時間半で終わった。術後の経過は順調すぎて、食事で失敗を犯し(海外出張による疲労度を軽視)、院内感染で軽い風邪に罹る不手際が重なって、手術傷の直りが身体の回復を上回り、その分リハビリの進度が遅れ、花見は窓越しでした。
術後数日目の夕方、寝ぼけた頭で目を開くとどうも様子が違う。目の前に壁があった。そうなると立っているはずだがそんな感じは全く無い。よく見ると壁は天井だった。重力線に直角だ。僕は故岩城氏の記述を思い出したが、だからと言って、どうにもならない。やれやれとしばらくの間ごそごそしていたら治った。幻覚はそれきりだった。故岩城氏の場合は5日続いた。手術を取り巻く環境がダンチだったんだから当然だ。
リハビリのW術師は親切無比、指導は的確で歩き方の基本から教わった。
5階廊下で補助道具に頼って歩行訓練をしていると、隣のインド大使館の庭が見えるところがあった。1960年にそこで国費留学生の試験を受けた時と何も変わってない景観を全く思いがけない視点から見たので、その時の印象を極めて細かく思い浮かべることが出来た。
僕の退院後、建替えの始まったインド大使館
仮免で毎日、毛並みの良い猫と住む身なりの整ったホームレス氏のベンチ傍を通って、花見時期が終わった千鳥が淵、靖国神社、北の丸公園をしこしこと歩き、五月の連休明けに退院した。
千鳥ヶ淵に住むネコ
リハビリを兼ねた6月下旬にはじまる1ヵ月半の海外出張は許された。しかし行き先は雨期に入っていたので思ったほど訓練は出来なかったが、25年振りの「424」とは毎日会って話す期間があって心が和んだ。
役務契約が締ばれてから実際に出発するまで7ヶ月経っていたので、1月第一回目の出発前の会合には左脚が撚れた姿で出席した。施主、委託者側は不具の老人を見て、さりげなく眉を顰めていたが、第二回目出発前の会合では何気ない安堵感が漂っていた。
こうして僕は1年足らずの間に25年から60年前の自分の軌跡上の8点(身体上2点、国の内外で会った人5点、場所1点)にゆくりなく舞い戻った訳である。
第二回現地作業が終わった今、僕は第三回目出張の準備作業をしている。予定は工事完了後の来年4、5月ごろだ。雨期が始まって誰も天然の水で用が足りる時だ。水道代を払う気持ちは減退する。一方、8月11日の大統領選挙が決選投票に縺れ込み9月に再選挙となったので行政は遅滞し入札事務も少し遅れたが施工業者は決まった。
いまのところ、僕の首はうまく回っているし、足の踏み込みも順調に強くなってきているが、骨化症状の進化を止めるものではない。足先は前ほどではないがほどほどに冷たくなって来ているし、四肢の先端には少し痺れが戻ってきている。だけど、歩けると言うことは大変幸せなことだ。
まあ、あれやこれやあって、時は経って行く。すべて、世はこともなし、に見えるところへあれやこれやが入って、来年のことを言うと鬼が笑うことになる。(註:9月記)
(了)
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