第5回 25年目に出会った男 その2/西アフリカ、シエラレオーネ国
3月3日(土)
昨日夕方、首都での今回最後の聞き込み調査をやった。超お忙氏である首都圏上下水道公社総支配人との面会がこれも水道局側の朝からの超ねばりで出来、しかも和やかな雰囲気で質問が出来たので、万々歳であった。
その翌朝だから、気分良し。仕事で2台借り上げていたうちでM村に行ったことのある運転手Y氏の車を雇上し、7時半ホテルを出発。途中で、N修道女との再会を約していたJICA契約職員Wさんを拾い、Port Lokoに着いたのは10時、「424」と帰路の案内人、彼の従兄弟を子連れで乗せると直ぐ出発する。村はPort Loko Creekの下流左岸にある。道は直ぐ下の支流に架かった橋が壊れているので、Lunsarの上流にある廃鉱になったMarampa鉄鉱山から約80km離れた積出港Pepelへの廃線沿いに走った。ブッシュの中に次から次へと集落が現れ、小谷になると水田が現れた。漸く、橋からの道に合流して、そのまま尾根を行く線路沿いの道を走り続ける。廃駅2つを過ぎて道は右岸に渡る鉄路と別れ、Creekに向けて下り始めると、アブラヤシの植林の中を走るようになる。
もう、かれこれ小1時間は経っていた。「片道1時間はさば読みだったな。」地図に村の位置が落ちていないから、頭で時間のやりくりをしておく。
従弟の子供がぐずり始めたので、前の席に坐ったWさんが抱いてあやし始めた。途中、道一杯になって丸木舟を細い丸太のコロにのせて運ぶ村人達の退避作業を「424」が降りて音頭をとり、また、たった1回だけ、すれ違った車に乗っていたのが選挙運動中の彼の叔父一行だったりした。
どの集落も、多くの家の建て直しが終わったところだった。長い間反乱軍が駐屯したこの酋長領では、どの集落も軒並みに人や財産に大きな被害を受けたようだ。停戦が成立して数年、日干しレンガを作り貯め、ようやく人びとは壊された住居の再建を果たせたところのようだった。僕のいた町とは異なり、保護国だった英国の診療所が1軒あった他は援助の看板は殆ど目に入らなかった。
アブラヤシの実を運ぶ女の子たち
舟の乗客
M村に着いたのが12時半だったので、嫁さんや村の主婦連が準備を始めかけた昼飯用の魚と洗った米を見ながら、またまた食べずに去る羽目になる。
Susu族の男系S氏族が三十数軒住む此の村の家屋では殆ど被害の痕跡が消されており、建て替えや、新築の家が数軒、集落の外れに見られただけだった。村の中央に伯父の家と村長の家があり、「424」の生家はその並びにあった。伯父の家に案内され、応接間にW氏を休ませ、運転手に飲み水と食い物を買う手配を「424」に頼み、直ぐ外に出て、村長や警官に挨拶しながら「424」の家に行き、彼の部屋を見、裏の広場に出て、乾期の間は大きな木の下にほぼ野晒し状態で置かれているリスター3気筒のディーゼル発電機を見た。これは伯父が寄付したもので、毎晩、村の広場と集会場に午後7時から10時まで電燈が点くそうだ。
運転手用の水とパンを車に積み、水位の下がっている川面を船着場の高台に生える大木の陰から一瞥しただけで、1時過ぎ村を離れた。村はずれまで来ていた丸木舟輸送隊はすばやく退避し、見送りの「424」もそこで降りた。
復路、Wさん、子連れ従弟の口説きのすばやさにあっけに取られた、と言う。俺が超特急で村の中心部を一回りしている間の出来事だ。いやはや。
村の家
洗濯場の風景
Y氏が運転に老練さを発揮し、Port Lokoに従弟を降ろしLunsarにあるClarrisan修道院に着いたのは4時数分過ぎだった。それにしても、身の丈ほどのブッシュの中で、なんとすべてが超速で動いたことよ。クラッチに身体を預け疲れた頭の中で、村の光景が走馬灯のように回った。
Marampaはイギリスの製鉄業に原料を供給し続けて来た由緒ある鉄鉱山であり、Lunsarはその町である。長い閉山の後、ちょうど俺がいた年にオーストリアのAlpine Steel社とシエラレオーネ政府との間に再開の調印が結ばれた。確か年産100万トンで、残り2、30年位の埋蔵量だった、と記憶していた。今回見ると、鉄道も主要道路と交差する箇所では、もぎ取られて全体に廃線の様相だった。
しかし町は海岸と後背地との中継地としての役割を果たして来、このカトリックの修道院も学校と病院経営で地元に役立つ活動をしてきたようだ。また首都から此処への舗装道路同様、内戦の被害を受けていないように見えた。
修道院は煉瓦の外壁や建物が出自を示すようにメキシコ風で、広く乾いた風景に、定かでない僕の記憶に溶けたように低く収まって見えた。玄関への道の周りには花が咲き、此処で死んだ日本人修道女の碑が立っていた。扉はすっと開き、NさんとWさんは親しげに挨拶を交わし始めた。もうテーブルには自家製のジュースが何種か並べられ、すぐ発電機が動き出した。Jamaica Juiceのか細い味には憶えがあった。ハイビスカスの花を搾ったこのジュースはマレー半島北東岸の企業化試験農場で飲んだ。腹が減っているのも見透かされて、肉料理も出された。
Nさんは僕の顔は憶えていなかったが、漢字で書かれた姓には見覚えがあると言われた。25年前、朝日新聞の読者欄に彼女の投書が載り、我が調査団の監理委員長だったM農林技官が寄贈する文房具を預かって来たので、同行した。その時、日本との間を3度往復したので、もう一度荷物を届けに「424」と来た。今でも少し一緒にいたら昔そのままの部分に出会うと思うが、その頃の「424」には先祖崇拝や自然崇拝の気持ちが素直に外に出ていたような気がする。二人を合わせたとき、全く違和感がなかったから。
Nさんの立ち居振る舞いが醸し出す雰囲気は、25年の時の移りを背負って、密度が濃かった。
この組織の代表者として学校、病院を経営し、他の宗教集団、地元の政治家、政府機関との交渉、反乱軍とも身体を張った駆け引きを続けて来た迫力が伺えた。
「当時の大酋長はカトリック信者だったから、何も問題は無かったが、今はモスレム教徒の後継者の時代だから、増築している学校の土地問題をはじめ、交渉ごとが多くなりました。」
「確か1982年の12月には、此処で鉱山再開の儀式と祭典がありましたよね。今では山はもうずりだけになってしまったわけですね。」
「なんの、なんの。あの時、山は1年目に動いただけで終わったんですよ。契約では人件費はアルパイン社とこちらの政府とで隔年払いになっていたのに、2年目に政府が不払いを起こして、はい、それまで。それからずっと休眠だったのが、藪から棒に去年、採掘権の国際入札があったの。」
「どうせ中国が一番札でしょ。」
「ところが二番札だったの。一番はイギリス。」
Nさんは挨拶に来た日本、フィリピン、インドかららしい修道女達にWさんを紹介した。
「私のうちは群馬の没落地主で、兄弟の中には横浜の方に住んでいるのがいるんです。」
ああ、そのとき俺は手紙をことづかって東京で投函したことを思い出した。
16時45分に失礼する。舗装路をひた走り、混んで来た首都圏道路の車の群れをかきわけたり、すかしたりして、19時過ぎには彼女を会合予定のあるレストランに下ろし、長時間運転のM氏を労った後、小さな湾に面したホテルのテラスに並べられたテーブルが、夜が更けるとともにさざめきが増す中で、片隅に空きを見つけ、軽く夜食を喰った。 UFO
<註> 内戦中に直面したN修道女の体験は僕の憶測をはるかに超えたものだったことを、たまたま見た松本仁一著『カラシニコフ』2004年、 朝日新聞社刊、35-38頁で知った。
記事の要点は、「N修道女は98年2月、チフス、マラリアの併合症のため高熱で臥しているとき、襲撃を受け、九死に一生を得た。経営していた学校はゲリラ部隊に接収され、あげくに破壊された。」
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コメント
お元気そうで何よりです。
小野田さんがブログをやるとは時代は変わったもんだ。
時系列が前後しているから、なかなか分からなかったですが、25年ぶりの再会は感動でしょう‥特に内戦のあった国の中では。
もうタンザニアに見えることがないなら、私が東京に行った時にお会いしますかね。
涼しいダルエスサラームから
投稿: 根本利通 | 2007年8月23日 (木) 19時41分