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2007年7月

第4回 25年目に出会った男 その1/西アフリカ、シエラレオーネ国

 2007年2月6日(火) (写真4枚掲載)
 国立稲作研究所の宿舎規則で午後7時から10時までと決まっている移動型ガソリン自家発電による照明の下、食堂兼応接間に一人陣取って夜なべをやっていたら、ベランダにたむろしている家事・料理人や夜警のさざめきが、一瞬とだえて、「客が来た!」
 一体この時間に、「誰!」と俺。別の低い声で、「424」。
 あっと思って、戸を開けたら、男がそこに立っていた。じっと顔を見たら、全く58歳とは思えない若々しい雰囲気で、にこっと、すると、分厚い黒い手を出し、「湿地帯米作りの手だよ。」と言った。

 1982年以来25年振りである。間には10年にわたる大きな内戦があった。彼は当時、農業省雇いのトラクター運転手で、「424」は彼が管理していた農耕用トラクターの番号だ。彼は担当地域の農民の求めで賃作業に出かけていたから、誰もがその番号で彼を呼んでいたし、彼も自身をそう呼んでいた。僕はマングローブ湿地帯の稲作増産計画の現場経済屋で来ていて、地域経済、事業評価の他に、当時は社会屋に予算は付いていなかったので、自分の分析に不可欠な調査として大川の感潮域に住む農民の実態も調べた。僕は農閑期の彼を案内人に小舟と足で5km × 2kmの湿地帯を隈なく動き、点在する村々を百日余の期間ほぼ毎日訪ねていた。彼は風変りな男で、正直、真面目、いつも俺を守り、船頭と「何故、外人と地元民とで船賃を変えるんだ。」と厭きることなく値引き交渉をして、幾らかは成果を挙げていた。見知らぬ船頭の舟に乗るときは刀を預かり、道や水中を歩くときは先導して横切るお蛇さまを見送ってくれた。

 今回、僕は彼の村がある大河から2本西にある大河の港町で水道施設を修復するために二人の土木屋と来ていた。僕の仕事は施設修復後の運営・維持組織の確立である。まず2007年1月23、24日と2泊して町、酋長領、県と挨拶廻りをした。首都Freetownから160km、乾期で3時間半、雨期には4時間掛かる場所である。その帰りに彼が生きているかどうかを調べるために、彼の村の上流にある町にあった昔の連絡場所へ伝言と携帯電話番号を書きおいた。1ヵ月の本調査のため1月31日に再度通ったとき、彼は生きている、と人は言い、彼の村まで舟で1時間半、陸路で1時間と分かったので、復路便の運転手に飛脚代付きの伝言を託したが、慌てていたので電話番号を書き添えるのを忘れていた。

 彼は川舟と乗合バスに乗ってやって来た。右ひじにクラッチを握って木偶の棒の左足を引きずる俺の不自由な姿に驚いて突立っている彼を、まずソファに手招ねきし、「良く来たな。」とねぎらった。彼の英語はクレオール語圏の中学2年まで、俺の日本英語とで昔も結構通じていた。彼は親に金が無くて中学を中退していたが、俺が去る間際になって血縁に社会的に力のある人がいる状況を見た。しかし、彼の振舞いがそれとこれとは別なんだ、と言っていた。

 当時、嫁さんZと3人の娘がいた。その後、彼女が死に、後妻が来たことまで知っていたが、そのあたりから連絡は途切れていた。先妻の娘3人は皆、嫁に行き、後妻との間に4人生まれたうち、最近一人死んだが、長男は中学に入ったと、証明書を見せた。

 「後で日本から送った8HPのヤマハ船外エンジンは着いたのか。」と20年以上気にしていた質問をしたら、何のことは無い。「ああ、着いたよ。あれで全て大変うまく行っていたんだ。」とあっさり返事が返ってきた。俺は英国リスター社2気筒エンジンに直結したスコットランド製の籾摺り・精米機に出資し、彼はボートを作り、船着場のある小さな土地を借りた。籾摺り・精米の出前、米やアブラヤシの核の購入・貯蔵・運搬・販売に関する注意点と色々教えた内容を消化してやっていたことはすぐ分かった。

 「しかし内戦で皆持って行かれちゃった。」

 かくして我々の共同事業はうたかたと消えたが、彼の家族は殺されるのを免れていた。
 「思いもかけず反乱軍に夜、表の扉を叩かれたときは、妻を後ろに摑まらせ、子供二人を脇に抱えて、裏口から間一髪でブッシュに逃込み、大河の対岸にしばらく潜んでいた。親戚で何人かは殺された。」
 反乱軍が駐在した、彼の村が属する酋長領では、大酋長はこめかみを撃ち抜かれ、跡継ぎの一人も殺された。レバノン商人も喉を搔き切られ、夫人も殺されていた。それに比べて、此処数年、世界の耳目が集まり援助機関が集中して来た、ギニア国境に隣接する、この町が属する酋長領を含んだ県では、敗走する反乱軍の越境を阻止するため隣国から空爆があり、反乱軍による建物の破壊もあちこちに見られるが、人はほとんど殺されていないようだ。大酋長もレバノン商人も殺されていない。

 そういえば、電気が消えるまで、しゃべっている途中で、何度か「会えて、良かった。」と呟いていたな。彼は内戦で死んでいたかもしれないわけだから。俺にも死ぬ確率はあった。

 翌朝、飯を一緒に喰い、俺は仕事に出、彼は研究所の農園を見に行った。昼飯を食っているとき、反乱軍に相当破壊された施設でも「此処はすごい、すごい。」を連発していた。きっと働いている連中と話し、色々見たり聞いたりしたのだろう。午後の仕事をして3時半に戻ってくる途中、隣の宿舎前に座っていた数人の男の中で、白服で黒めがねをかけた男が親しげに手を振る。誰かと思ったら「424」ではないか。全く分からず。此処に3人いる同姓の裏方の一人に火熨斗をかけさせてパリッとした恰好で帰り支度が出来上がっている。ここでは誰もが皆一張羅を着ておんぼろバスにすし詰めになって砂まみれの旅行をするが、ちょうどうまい具合に人を迎えに我が団の車がフリータウンに行くので、途中まで便乗を頼んだ。写真を撮ろうと言ったら喜んだ。そして20日(火)に嫁さんを連れて来る、と言って別れた。彼女も夫からずっと名前を聞かされてきたその本人を見たいらしい。

 彼が俺の魚好きを伝えてくれたので、その後、時には、コックは冷蔵庫の無い魚市で買って手早く料理した魚を使って毎日二食、同じピーナッツ味の鶏料理にアクセントを付けてくれた。そして今日は魚、とはかない期待を持たせてくれる日々となった。

 2月20日(火)
 午睡の後、机の上に紙をおいていじくっているうちに一時集中した。ふと気がつくと、網戸の向こうを人影が動いて来る。「424だ。」その確信ある動き方!! すぐ後ろに人がすたすたと続いている。女のはずだが、男のようでもある。自然と「424。」と声が出たら、「Yes, Sir.」と返ってきた。
 戸口で「嫁さん、M。Lunsarの出だよ。」と紹介した。44歳。大柄で鍔だけの帽子を被り、挨拶は悠然としている。夫と一体の感がある。Market Mamaの素質が見て取れた。「何かすぐ出来る商売を考えているだろう。」と聞くと、「パーボイルライス加工。」と応える。「いくら掛かる?」「6万レオーネ(=200US$)。」 
 貧乏な俺にも出せる。
 「じゃあ、試験的に投資しよう。結果は次に来たときに知らせろ。」
 同宿の団員に写真を撮ってもらう。

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「424」と嫁さんMとの記念撮影

 翌日、二人を川港の市場に下ろして、日常業務(この日はS氏の配管等修理について)を1件こなし、二人を拾って、今度は水源上流調査の途中で幹線道路沿いの国際市場で別れる。是非、村に来い、と言うので、28日(水)Freetownへの移動の際にはお前の村には行けそうにもないが、少なくともPort Lokoで会おう、と伝える。

2月28日(水)
 現場から引上げる途中、約束どおりPort Lokoの彼の伯父の家に立ち寄る。昼前で、彼と先妻の3女とその子供二人が前夜、舟で来て泊まっていた。下の男の子の鼻孔に砂利が刺さって、Lunsarのカトリック病院に連れて行くところ。この娘も俺の名前を散々聞かされて来たので、俺を見る目が全く他人を見ている感じではない。この町でも概査する予定の水道復旧案件があり、往復2時間脇道をする余裕は無かった。
 「村に来てくれるかもしれないと嫁さんに魚料理を作るように言って来たんだが、残念。」

 木偶の坊の左足を引きずっての今日までの仕事も相手方の協力で予期した以上の出来になったので、最終の週末は、これまでの土日無しの生活を止め、ごろ寝で酷使した身体を休める予定にしていたが、土曜は動くことにした。
 「車を借りて、お前の村とLunsarを訪ねるから。昼飯はお前のところで。」
と約束する。Lunsarにも25年前、頼まれて、物を届けたカトリックのN修道女が健在との情報を首都で貰っている。(続く)   UFO

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浄水場改修工事現場 

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取水池の風景 

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簗から魚を取り出す子供

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第3回 シエラレオーネへ/第2回往路

6月20日(水)成田出発。ロンドン泊。6月21日(木)シエラレオーネ国フリータウン着。

 乗ったのは、成田を正午に出、12時間強飛んで午後4時半ロンドンに着くJALの昼行便である。この便は、北へ北へと上ってツンドラ地帯からストックホルムへ下ってくるコースをとった。

 この機材のビデオには、外の景色を見られるチャンネルがある。ゆったりと音楽を聴きながら酒付の飯を食い終わって、下界の鳥瞰を楽しみ、フラクタルの理屈に乗って雲が視野を遮る毎に居眠りをするか運行地図のチャンネルに切り替えるか、していれば僕の時間感覚は飛行機の移動速度に加勢した。

 こうしてツンドラ地帯では夏に入ったばかりの蛇行する河の水や、パックアイスが押し寄せる海岸などの珍しい風景を記憶にとどめ、スカンジナビア以南では、山、谷、海辺と其処に点在する村や町を飽かず眺めながらグレート・ブリテン島に近づいていった。

 さて、大昔に比べてヒースロー空港エリアに拡張の余地はないが、施設は増え続けている。今度第5ターミナルが機能し始めれば、遠距離便数や客室密度は急激に飛躍するだろう。

 翌朝4時に起きて、グリニッチ埠頭に係留されている帆船カティサーク号を見に行った。ちょうどひと月前、5月21日、改装中だった歴史遺産は火災に遭った。行ってみると、修理費を募る記述のある囲いの中で、舟の骨組みが、木造ではなく鋼鉄だったおかげで(なるほど、設計者、船主が破産したのは、中心の構造物に金を掛けていたのだ)、形を残したまま横たわり、一から改装やり直し作業中だった。外してあった調度は全て横に造られた3分の1スケールくらいの舟の形のテントの中においてあるようだったが、朝早いので、細かいことは分からなかった。

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グリニッチ埠頭:火災後のカティサーク号復元現場

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グリニッチ埠頭:復元現場横に張られた舟形のテント

カティサーク号、火災前の雄姿2枚

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 今、ウィスキー・ビンの絵になっているカティサークは、行きの積荷には酒もあっただろうが、上海からの各種茶とオーストラリア南岸からの羊毛が主たる帰り荷で、その船旅の速さが売りだった。この船のことを知るまで、僕はシャンペン同様、紅茶は積荷の緑茶に海水が掛かって異常発酵したのをロンドン商人の必死の機転で商品にした怪我の功名の結果としか思っていなかったし、カーリガットからダージリンやアッサム茶を運んだ後の時代のことしか頭になかった。
 (ダージリンと言えば、僕は昔、シェルパの若者とトレッキング会社をカトマンズに設立したとき、彼とシルグリから汽車に乗ってダージリンを訪ね、インド国内の活動に関してタイガーヒルに住むテンジン・ノルケイ氏に力を貸してくれるよう頼んだことがあった。その後、ネパ-ル零細企業育成の一環でイラムの田舎茶を扱ったとき、初めて本場ダージリン茶最高級品の頭抜けた美味さに痺れた。)

 グリニッチ波止場横には、川幅500メートルの対岸に向けてテムズ河底歩道トンネルの入り口が開いている。見ていると、1902年8月開通と刻まれたドームから自転車に乗った娘が出て来た。対岸は全域おなじみドックランドで、1970年代、再開発が始まった頃、アフリカへの途上一泊を利用して見学に来た。今は都心からドック全域を串刺しにし、テムズを渡ってグリニッチからルイシャムまで無人の軽鉄電車が走り、ドック跡、高層事務所ビル街、河畔の緑地景観とジグソーが入り組んで人々がやってきているが、この企画実施者も途中で破産したはずだ。テムズ下流の泥は深い。

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グリニッチ埠頭:テムズ河底歩道トンネル入り口

 正午発が1時間遅れると、パイロットからの放送があった。機材の予期せぬ修理ではなく、ごく日常化しているらしい荷物積み込み作業の遅れだそうだ。昔のようにその間に荷抜きがないからいいじゃないか、といった口調だった。今も此処では一晩滞留した荷物の中身の責任は持ってもらえないらしい。

 イベリア半島から大陸の西海岸沿いにダカールまで飛んだ。昔ならBAは旧英領、AFは仏領と目的地に応じて出発点を変えたものだが、今は旗に関係はなく、SIほど明白ではなくとも客のいるところを繋ぐ。もっとも今日はダカール − フリータウン間の乗客はほとんどいないようだった。

 この空港から首都へは大きな河口を渡る。前回1月に着いたときはヘリもホーバークラフトも故障中で、フェリーに乗った。82年に来たときには日本から供与されたばかりの中古フェリーに乗ったが、今も同じ船だ。今回はホーバーで運んでもらうことになった。前回離れる時は前日にヘリの修理が終わり、ホーバーは部品待ちだったので、人はヘリかフェリーかで迷った。僕らは、ままよと、ヘリに乗った。そのヘリが5月だかに火を吹いて墜落し、25人全員死亡した。ホーバーはそれに比べればはるかに穏やかな乗り物で、座礁はしないし、エンストでも、ゴムのスカートの下には幾ばくかの空気があるから、救命ボートに乗り移ってから寒流サメに突かれるくらいで済むだろう。それでも午後10時半に着陸してホテルに着いたら、22日午前1時半だった。これで、朝8時半には事務所に出勤する。

UFO

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第2回 ボケナスの熱中/気管支炎に罹りかける

 6月25日(月) ロクープルにて。西アフリカ・シエラレオーネ国。 写真4枚

 餓鬼の頃から僕は身体を酷使することに慣れて来ていた。まあ、それしか売れる物がなかったとも言えるが。3月に頸椎3−6番を後ろから切開する手術を受けてから、これを売り物にするのを止めることにした。だから今回の旅は、途中ロンドンで睡眠を含め20時間の中休みを貰えたとは言え、成田を発って機内滞在時間総計二十数時間の後なので、この土日は休息を念頭に仕事を、と決めていたのだが、今回1ヶ月ほどの間にこなさねばならぬ現場作業のうち二大項目の準備を急かされる材料がやってきたので、つい熱中して、日曜午後8時半に僕の脳のアキレス腱、視神経から停止信号が出るまでやってしまった。アホが! 言わんこっちゃ無い! ともう一人の俺、のたまわく。直ぐ止めて、ビタミンCをがばがば飲んで夕食も摂らずに寝たが、後の祭りである。

 月曜は微熱とけだるさが身体に蔓延し、喉がいがらっぽく、はしかく、時折、痰がひっかかる状況で、現場まで雨期4時間の車旅となった。頸椎神経もどうやらくたばっていて、寝ぼけ時同様、腰がどっしりと据わらないから、術前の前回同様、身体が撚れて、着いた時はふらふらだった。

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河港の市場 

僕は、饅頭怖い、ではないが、薬は本当に恐れ多いから、出来るだけ持ちたくない。旅の常備医薬は外傷・虫刺され用の軟膏、雨期・熱帯の現場には、それに抗真菌剤。また薬ではないが、馬鹿にされながらも永年、発見者が創設したメガC党の横着な党員で、年をとってからはマルチ・ビタミン・ミネラル錠剤も定番となっている。Cはダブるが、知れている。

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稲作研の構内

 現場の定宿、国立稲作研構内のゲストハウスは、大きな木々の疎林の中にあって、静かで、心地良い。雨期だから、前回と違ってほとんど蚊もいない。だから、いわゆる「風邪の効用」を試す機会も無いままに、気分優れず、の空蟬の殻はゆったりと落ちて行った。 UFO

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港への下り坂(今は雨季だが、写真は乾季のもの)

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河の港。上げ潮で水面が上がってくると埠頭の高さまで水が来る

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